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2016年9月4日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.9.4 ヨハネによる福音書10:1-6 「その声はよく知っているから」 望月修治   

◆ 聖書の民の祖先は羊を飼う遊牧生活をしていました。そして聖書はこの遊牧民によって語りつがれてきた物語です。さきほど交読しました詩編23編には「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と歌われていました。聖書では神と人との関係が羊飼いと羊の結びつきに譬えられ、物語られています。ユダヤの人々にとって羊飼いと羊というのは、日常生活に密着した非常に親しいものでした。1節に「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」とあります。羊は夜眠るとき「囲いの中」に入りました。羊が憩い、また夜眠る場所である囲いは牧草地の真ん中に作られることもありましたし、農家に隣接して作られる場合もあったようです。囲いには門があり、門番もいました。羊が囲いの中にいる間はいつも、野獣や盗人から羊を守るために見張っていました。いくつかの群れが一つの囲いの中で一緒に夜を過ごし、羊飼いは交替で見張りをしました。

◆ 3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。当時パレスチナでは、たくさんの羊をもっている人はいなくて、大体五十匹から百匹くらいだったろうといわれています。マタイによる福音書18章とルカによる福音書15章には百匹の羊をもっている羊飼いの譬え話、一匹がいなくなってしまったので九十九匹を残していなくなった羊を羊飼いが捜しに行くという物語が記されていますが、百匹というのは当時のパレスチナで所有されていた数でも多い方だったということになります。羊飼いは自分の群れの羊を大変かわいがって、愛情を込めて名前をつけていました。鼻が黒ければ鼻黒とか、足がちょっと黒ければ足黒とか、そういう名前を一匹一匹につけていたようです。あるいはこの羊はちょっと胃腸が弱いとかということまで知っていたようです。ヨハネ福音書10章11節には「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と記されていますが、確かに羊飼いたちは、羊を連れて先頭を歩いて、水や草をさがすので、そこに野獣が出てきたり、あるいは泥棒が出てきたりしたようなときには、真っ先に戦います。そして羊が迷ってしまったときには、どこまでもそれを捜して、その屍骸が見つかるまで捜して歩いたといわれています。そのような羊飼いの声を羊たちはよく知っていて、呼びかけの声を聞くと囲いの門から外に出て羊飼いのもとに集まり、草地に出かけて行きます。イエスはそのような姿を感心して見ていたかもしれません。よくあんなふうに混雑しないで、間違うことなく自分の羊飼いの後についていくものだと思っていたのではないかとも思うのです。

◆ ヨハネ福音書10章には、こうした羊飼いと羊を題材にした、ほかの福音書にはない独自の物語が記されています。10章を読みながら、イエスは、羊値と羊飼いの姿を見ていたとき、エゼキエル書の言葉を思い起こしていたのかも知れないと思いました。エゼキエル書34章(11-16節)に次のように記されています。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。・・・わたしは良い牧草地で彼らを養う。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。・・・わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ出し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」

◆ 預言者エゼキエルが神の働きを語るにあたって譬えとして用いた羊飼いと羊の生活はイエスの時代の人々にとっても身近なものであったはずです。それゆえイエスも羊飼いと羊を素材にして、10章に記されている譬え話を語って聞かせました。しかし6節には「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」と記されています。「羊の囲い」のたとえはファリサイ派の人々に向かって語られたものです。誰かに対してイエスが語ったこの譬えを、ファリサイ派の人々もそばで立ち聞きしていて、いったい何を言っているのか分からなかったというのではなくて、自分たちに向かって語られたのに分からなかったというのです。

◆ 何が分からなかったのか。このたとえの内容は簡単です。ファリサイ派の人々も、イエスと同様に日常のこととして羊飼いたちの姿を見ていました。イエスからいちいち話を聞かなくても、羊飼いがどのようにして羊を養っているか、羊が養われているかよく知っています。だとすれば何が分からなかったのか。それはイエスが語った
話と自分とがどのような関係にあるのかが分からなかったということです。

◆ なぜ分からなかったのか。10章の「羊の囲い」のたとえは突然始まったのではなく、9章の物語の続きなのです。エルサレムの都に生まれながら目の見えない男がいました。物乞いする以外に生きていくすべがなかった人でした。イエスはこの男に声をかけ、その目に自分の唾でこねた泥を塗ってシロアムの池で洗わせると、見えるようになったというのです。9章14節にこう記されています。「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。」 そこから事が始まりました。ファリサイ派の人々はイエスが生まれながら目の見えない人をいやしたのが安息日であったことをまた問題にしました。イエスの行いは、安息日に労働を禁じた律法を犯し、神を冒瀆するものだとして槍玉に挙げました。この男を裁判にかけ、事の次第を問い詰め、そしてお前を癒したそのイエスを否定し、特別な存在だなどということを認めるなと脅しをかけました。しかしこの男はそんなことはない、あの方こそ神から来た方だと言い張ったので、ファリサイ派の人々はこの男は追い出してしまいました。6節でイエスが語った「羊の囲い」の譬え話が何のことか分からなかったというファリサイ派の人々とは、そのような人々のことです。彼等にとって最上位に来るのは律法という掟でした。掟を守ること、律法に従うこと、それが神の道、神の御心に答える道だと彼等は信じ、確信していました。しかしそれは「羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出す」ということとは全く違う、正反対と言ってもよいかもしれない程のものでした。掟は間違っているというのではありません。ない方がよいというのではありません。ただし掟は人を規則という枠にはまるかどうかで判断し、はみ出るものには不適格の烙印をおし、排除してしまう。仕方がないねと言って済ませてしまうことを伴います。「名を呼ぶ」とはそれと真逆です。ユダヤでは「名前」とはその名を持つ存在のすべてを表すものだとされていました。ですから「名を呼ぶ」とはその相手のその時のありのままを見ること、知ること、受けとめることを意味しています。

◆ 羊は「門から入る者が羊飼い」の声を聞き分けるとイエスは語っています。当時、羊が出入りする門は、その習性から、非常に狭く作られていました。ですので、羊が出入りする戸口には、尿や糞や縮れた毛がこびりついていて、いつも汚れていました。イエスはその門から入る羊飼い、あるいは「羊の門」(7節)そのものであると語るのです。イエスは、羊、すなわち私たちを丸ごと、破れや的外れの部分も含めて丸ごと受けとめながら、一人ひとりの「名を呼んで連れ出す」ほどに私たちを慈しみ、赦し、導こうとする羊飼いなのだとヨハネ福音書は語っているのです。

2016年9月18日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年9月18日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日
説 教:「人の愚行、神の知恵」
牧師 髙田 太
聖 書:ローマの信徒への手紙
11章33~36節
招 詞:箴言3章13-14節、19-20節
交読詩編:139;1-10
讃美歌:25、1、356、224、91(1番)

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