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2016年9月11日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.9.11 エフェソの信徒への手紙3:14-21「私は傷をもっている」    望月修治  

◆ どうしても立ち直れないとき、もう駄目だとかんじるとき、何気ない言葉で傷つくことがあります。そして傷つかない人はいないのだと頭では分かっていても、自分自身がその立場になると周りのものすべてが敵に見えることもあります。そのような体験にそっと寄り添う言葉に出会えたなら、それは真っ暗な心の闇の中で小さな光となります。「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」 星野富弘さんの詩画集の中にある言葉です。

◆ パウロという人も傷を持っている自分と向き合わされた人です。そしてその傷のところから神さまの本当の思いがしみてくる、という体験をした人ではなかったのかと思っています。熱心なユダヤ教徒として薫陶を受け、そのリーダーの一人にもなったパウロは強くて、能力のある人間でした。しかも彼の後ろには、ユダヤの権力者たちがついていました。その力にまかせて教会を叩きつぶし、キリスト者たちを血祭りに上げ、追い散らしました。その時のパウロは確実にキリストと教会に勝利しつつあったはずでした。しかしパウロは負けました。キリスト教会を打ちのめすためにダマスコへ向かっていた時、復活のキリストに出会ったとパウロ自らが語っている何らかの体験をし、キリストに打ちのめされてしまいました。それは、今の今まで律法を守り切ることこそ神が望まれる道だと信じて疑わなかった、その生き方をひっくり返される、そういう現実を突きつけられる体験でした。お前は間違っていると言い切られてしまう体験でした。打ちのめされて、どうしてよいか分からず、パウロは一人のキリスト者を尋ねました。自分が打ちのめそうとしていたキリスト者を訪ねて、これからの生きる道について教えを乞うたのです。打ちのめされた姿を人々の前にさらさざるをえませんでした。ユダヤ教のエリートとしての誇りを取り繕うゆとりなど吹き飛んでしまうほど、彼の受けた衝撃は大きかったのだと思います。

◆ しかし、打ちのめされ敗れた姿をさらけ出したからこそ、パウロは神の思いに触れなおし、ユダヤ教徒時代にはありえなかった体験と深い出会いを味わうことになるのです。使徒言行録21章にその出来事が記されています。その時パウロは3回目の伝道旅行を終えて、各地の教会から捧げられた献金を携えてエルサレムに向かっていました。その途中にパウロは多くの町に立ち寄りました。そして信徒たちの歓迎を受けています。その町々の中には、パウロ自身が伝道した地もあれば、そうではない所もあります。エルサレムから追い出されて各地に散って行ったキリスト者たちが、それぞれ住み着いた土地で教会を設立していったからです。彼らがなぜエルサレムから散らされていったのかと言えば、パウロ自身がキリスト教会を迫害し、彼らを追い散らしたからです。エルサレムに向かう途中にパウロが立ち寄った町に住むキリスト者たちにとって、パウロは自分たちを迫害し、追い散らした憎っくき敵のはずです。それなのに人々はパウロをあたたかく迎えました。この再会を私たちは簡単に見過ごしてはなりません。決して当たり前の再会ではないからです。パウロはどんな思いだったのでしょうか。かつてパウロに追い散らされた人たちは、今、その彼をもてなすにあたって、何のわだかまりもないのでしょうか。どうして彼らは、このようにパウロをあたたかく迎え、もてなすことが出来るのでしょうか。

◆ そうできたのはパウロが一度負けたからです。パウロは負けた人だったからです。人の敗北、躓き、うろたえは、その人と相手との間を埋めるものだと思います。打ちのめされた人であったからこそパウロは、彼が追い散らした人々に受け入れられたのだと思うのです。もし、パウロが自分自身の考えや決断で思想・信仰を変えてキリスト者となり、伝道者となったのであれば、かつてパウロに迫害され、追い散らされた人たちは、たとえパウロからキリストの赦しの教えを聞いても、わだかまりは消えなかったはずです。しかし敗れた姿をさらけ出したからこそ、人々から受け入れられていくことになったのです。

◆ 本日の聖書日課はエフェソへの信徒への手紙です。この手紙はパウロの死の直後、すなわち紀元59〜60年頃、パウロの弟子のひとりがパウロの名によって書き送った手紙です。ひとりの人の名をあえて用いて手紙が書かれるということは、その人が与えた影響力の大きさを示しています。パウロがそのような影響を残しえた一つの大きな理由は、彼が強く、立派に使徒として歩み抜いたからというのではなく、むしろ逆に、打ちのめされ、弱さをさらけ出したからです。その弱さや傷を通してパウロが知った神の思い、彼の中にしみてきた神の働き、それが今日の箇所では「愛」というキーワードによって語られています。18節、19節です。「またあなたがたが・・・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」 私たちが読んでいますこの新共同訳聖書では「キリストの愛の」「広さ、長さ、高さ、深さ」となっていますが、原文には「キリストの愛」という言葉はありません。前後の文脈との関連で、ここでの「広さ、長さ、高さ、深さ」とは「キリストの愛」の限りなく大きいことを言い表していると解釈して、原文にはない「キリストの愛」という言葉を補足して訳したのだと思います。しかしここでは「キリストの愛」というよりも、むしろイザヤ書55章(8-9節)に記されている神の働きを表した表現だと言えます。イザヤ書55章8—9節です。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」 神の思いと道とは人のそれよりはるかに大きく、高く、人はそれをとらえることができない。そのことを立派さではなく傷を通して、神の立派さではなく、神が負った傷、十字架という傷を通して思い知らされたのがパウロという人でした。神は傷を負う方であり、その傷を通して愛をしめされるのだという事実に激しく打たれて行った人です。それは彼の信仰理解には存在しなかったことでした。エフェソの信徒への手紙はそのパウロの体験を伝え語っている手紙です。

◆ 私たちは限界のある存在です。負ける時もあり、打ちひしがれる時もあります。失敗もあります。弱さや惨めさをさらしてしまう時もあります。苦悩が顔ににじみ出ることもあります。けれども、そういう時こそ自分と相手との間にある溝が埋まって行く和解の時なのです。相手に近づき、相手が近づいてくる時なのです。

◆ はじめての教会は、イエスを裏切り、見捨て、徹底的に打ちのめされた弟子達に、神が働きかけることによって始まりました。神は正しさ、立派さを押し立てその前にひれ伏せさせることで人をご自分につなごうとすることを止められたのだと思います。その決意を神はイエスの十字架という傷を負うことで示されたのです。強くなれという道ではなく、この弱さの傍らに寄り添う道を神は歩んで下さるのです。だから神の愛は、私たちの弱さや破れから私たちの中に流れ込んでくるのです。そしてそれが、神の愛は「広く、長く、高く、深い」ということの意味なのです。

2016年9月25日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年9月25日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第20主日
説 教:「転居の知らせ」
牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅱ
5章1~10節
招 詞:ヨハネによる福音書11章14-16節
交読詩編:65;1-5
讃美歌:28、51、458、339、91(1番)

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