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2016年2月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年2月21日(日)午前10時30分
復活前第5主日
説 教:「見える者にみえるもの」
          牧師 髙田 太
聖 書:ヨハネによる福音書
9章13~41節
招 詞:イザヤ書29章18~19節
讃美歌:151、1、445、579、91(1番)
交読詩編:18;26-35

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。
※2月28日の子どもの礼拝の場所を同志社大学神学館チャペル、とお知らせいたしましたが間違いです。
 正しくは、栄光館ファウラーチャペルでの礼拝です。

2016年2月7日(日)の説教概要 [説教要旨]

先週の説教要旨2016.2.7  ヨハネによる福音書6:1-15 「少年の小さな持ち物」 望月修治   

◆ 今日の箇所はイエスが男だけでも5千人はいたという大群衆に大麦のパン5つと魚二匹を配り、皆が満腹したという奇跡物語が記されています。3節に「イエスは山に登り」とありますが、そこはガリラヤ湖の湖畔からそう遠くない所にあった山というよりも小高い丘です。イエスは弟子たちとその丘に登り、座っていました。その後を追うように大勢の群衆がやってきました。イエスはこの大群衆を見て食べ物のことを心配しています。群衆の数は「男だけでも五千人」であったと記されています。その大群衆がお腹がすかせてきた。食事の手配りをしなければならない。イエスは弟子のひとりフィリポに言います。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」 至る所に24時間開いているコンビニのある現代社会とは違います。場所は人里離れた山、小高い丘の上です。そのような場所で五千人分もの食べ物をどう調達するのか。いやどこで買うかという以前に、まず気にすべきはお金でしょう。いったいいくら必要なのか。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるとしても200デナリオン分のパンが必要だ」という試算を提示します。当時の1デナリオンの相場は1日分の労働賃金に相当していました。200デナリオンはおよそ七ヶ月分の賃金の額ということになります。そのような多額のお金を弟子たちが持っていたとは思えません。

◆ 「『この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか。』イエスがこう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と、少し謎めいたことが書かれています。イエスは何を試みようとしたというのでしょうか。謎解きにはもう少し確認しておくべきことがあります。

◆ この状況に対して示されていることがあります。ひとりの少年が大麦のパン五つと魚二匹を持っているという事実です。そのことをイエスに報告したのはアンデレという弟子です。5千人分の食糧が必要という状況がある。それに対して手元にあるのは大麦のパン5つと魚2匹、この二つの状況が意味することは何か。アンデレの言葉が端的に示しています。9節後半です。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 ひと家族の食事なら「大麦のパン五つと魚二匹」で何とかなります。けれど五千人の食事となれば、「大麦のパン五つと魚二匹」では何の役にも立ちません。どう考えてもそうとしか考えられません。ここに示されるのは壁です。男だけで5千人はいたという大群衆、その空腹にたいして手元に確認できるのは大麦のパン5つと魚2匹。これは突破口のない行き詰まりとしか受け取れない現実です。そのような状況に譬えられる現実に向き合わされることはなかったでしょうか。

◆ 今日の物語は、その行き詰まりの状況に向き合うイエスの姿を後半で語ります。イエスはこの大麦のパンと魚を受け取ると感謝の祈りを唱え、そして人々に配りました。その結果は皆さんがよくご存じの通り、群衆が皆満腹したというのです。「満腹した」(コルタゼッセイ)と訳されている言葉は、もともとは動物に餌を与えるという意味に用いられていました。これが人間に対して用いられるときには、満腹した、飽きるほど食べたということを意味しています。ここで起こったことは、奇跡です。しかしながら、不思議なことが起こったということで済ますならば、この物語は私たちには遠い物語でありつづけます。現実の私たちの生活には何の意味もない物語で終わってしまうでしょう。

◆ ヨハネは書いています。「イエスは御自分で何をしようとしているのか知っておられたのである。」この言葉の謎解きはここからです。私たちが出会う行き詰まりという壁、これをどうしたらよいのか。福音書記者のヨハネは二人の弟子の名前を明記しています。フィリポとアンデレです。マタイ、マルコ、ルカはこの場面で弟子たちの名を記してはいません。ヨハネだけが名を記しています。それはこの二人の振る舞いを通して明らかにしたいことがあったからではないでしょうか。

◆ 彼ら二人が直面していたのは壁です。五千人分の食糧が必要だという現実、それに対して確認できるのは少年が持っている「大麦のパン五つと魚二匹」というもうひとつの現実、この現実は明らかに壁です。どうしてよいかその先を全く見通せない壁です。フィリポもアンデレもどうしてよいか全く分からないのです。フィリポは「5千人の人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねるイエスに「そうするには少なくとも二百デナリオンが必要です」と応じました。そのようなお金を手当てすることなど不可能ですという思いがにじんでいます。一方アンデレはひとりの少年を見つけてイエスのもとに伴ってきました。その少年が大麦のパン5つと魚2匹を持っていました。しかし大群衆のお腹を満たすための食べ物として、この少年の持ち物は何の意味も持ち得えないと彼は見ています。9節の言葉が示す通りです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にもたたないでしょう。」フィリポもアンデレも、壁しか見えなかった、壁の向こうが見えていなかったという点では同じです。

◆ ただ二人の対応で一つだけ違うことがあります。それは、意味がない、どうしようもないと思えること、ここで言えばわずかなパンと魚を持った少年がいる、ということをイエスの前に提示したか、しなかったかです。イエスのもとに持ってきたか、持ってこなかったかです。言い換えるならば、行き詰まった状況をつながりの中に置くのか、置かないのかです。そのままあきらめて放置するのか、持ち運んで誰かに見てもらおうとするのかです。気持が弾まなくなる、行き詰まって閉塞状態に陥ってしまう、それは孤独になってしまっているしるしです。繋がりを見失っているのです。その時に私たちがなすべきなのは、つながりの中に戻ることです。

◆ 少年が持っていたのはパン五つと魚二匹です。それは絶望的な状況を強調しているとも読めます。その状況をイエスのもとに持ってきた、すなわちつながりの中に置いたことによって皆が満腹するという、驚くべきことが起こったというのです。アンデレはその結果が分かっていたから少年をイエスのもとに連れてきたのではないはずです。その点では彼もフィリポと同じなのです。ただひとつだけ違ったのは、何も役には立たないとしか思えないことをイエスの前に持ってきてみたことです。それはつながりの中に置くということです。つながりの中に置かなければ、どんなこともそのままです。しかしつながりの中に置くときに、壁の先に続く道が見えてくるということを聖書は私たちに語っています。それが神の働きなのだと語るのです。人はしかし、それを諦めるのです。「何の意味もないでしょう」と言って諦めてしまうのです。イエスの前に、つながりの中に持っていこうとしないのです。

◆ 壁の向こうは見えないのは、壁の向こう側に何もないからではありません。壁は終わりではなく、その向こうに道は続いていると聖書は物語ります。大事なことはその壁の向こうを見る手だてです。わたしたちは諦めすぎてはいないか。自分の側からしか現実を見ようとしていないのではないか。なぜ聖書を読むのか。それはそこに自分に出来ることだけを読み取って、満足するためだけなのではありません。それを超えて備えられる道に発見し、その道を歩むためにこそ聖書に向き合っていくのです。「なにかわたしにでもできることはないか」という思いを抱いて、自分の現実をイエスの前に運び、神に委ねるという生き方を忘れないでいたいと思うのです。

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