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2016年2月14日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.2.14  マタイによる福音書4:1-11「ささやき」   望月修治          

◆ 先週の水曜日からレント(受難節)に入りました。今日の聖書日課は、レントの期間が40日と定められる由来となっている荒れ野の誘惑の物語の箇所です。この誘惑物語は次の言葉で始まっています。「イエスは悪魔から誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した」・・・これは大変興味深い書き出しです。「イエスは悪魔から誘惑を受けるために」と記されているからです。イエスは荒れ野に行ったらたまたま運悪く誘惑に出会ったというのではなく、「誘惑を受けるために」荒れ野に行ったというのです。イエスは意図的に誘惑を受けに行ったというのです。マタイはたしかにそう書いています。さらに「霊に導かれて」とも書いてあります。イエスが誘惑を受けることは神も同意していたことであったというのです。どういうことなのでしょうか。

◆ 荒れ野において誘惑を受けるというのは、かなり危うい状況に身を置くことになります。なぜこれほどの踏み込み方をするのでしょうか。救い主として伝道活動を開始するのであれば、荒れ野で誘惑を受けるなどという暗いエピソードから入るのではなく、たとえばこの後12節から書かれているような、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められたという物語からはじめてもよかったのではないかとも思います。しかしマタイは確かに荒れ野でイエスが受け身ではなく、つまり荒れ野にいったら運悪く悪魔から誘惑を受けてしまったというのではなく、自ら意図的に誘惑を受けたと書いています。ということは、この荒れ野での誘惑に対してイエスがどのように応じたのか、そのことが、イエスの姿勢、イエスが救い主であることの意味、さらには、神は人間にどのような生き方を求めているのかを明らかにしていく、そういう内容を今日の物語はもっているのです。

◆ さてイエスが受けた誘惑は3つです。1番目の誘惑は、40日間の断食を終えたすぐ後をねらいすましたかのように、「あなたが神の子でしたら、これらの石ころがパンになるようにお命じなさい」というものです。私たちの読んでいる聖書では「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」と少し穏やかに訳されていますが、本来の言葉のニュアンスで言えば、「40日40夜断食した後で、飢えていた」と訳した方が適切です。40日間の断食で弱っているイエスに悪魔は「神の子なら」と語りかけ、心をさりげなく揺さぶりながらささやきかけます。

◆ これに対して、イエスは申命記8:3の言葉をもって答えます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」 これは味わい深い言葉だと思います。預言者エレミヤはこう語りました。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」(エレミヤ書15:16)「神の言葉を食べる」とは、巻物に記されている神の言葉を、ただ読んで理解するだけではなく、その内容を噛み砕いて、自分自身の命の糧とする、栄養とすることです。人間の暮らしはいつも平穏だということではありません。辛いこと、苦しいことが訪れてきます。「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」とは、辛い音、苦しいことが訪れる現実から逃げることではなく、その現実のただ中に深く生きることです。神はその現実のただ中で働き続ける。だから表面をなぞるだけではなく、食べてみたらそれは思いもかけず「蜜のように甘い」と語りうる体験や味わいをもたらすのです。

◆ 2番目の誘惑は都の神殿の屋根の上で、ここから身を投げてご覧なさい。でもイエスが神の子なら天の使いがやって来てその足が地面につくまえに支えるだろうという内容です。神の子なら石をパンに変える力を示せ、と誘惑した悪魔は、次は神がお前を生かすかどうか神の力を示せと誘い、こうささやきます。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」 人は自分が信頼するに足る神を探そうとし、神を試します。そして確かだと思われる神にすがろうとします。悪魔はそのような人の思いに応えてやったらどうですかと言っているのです。神殿の屋根の上から身を投げて、天使がその体を支えるところを見せてあげたら、皆は確かにあなたが神の子であると納得するでしょう。人々は皆救いを待っているのです。あなたの言うことが本当なら信じようかと思っているのです。ですから誰もが納得するしるしを見せてあげたらどうですか。「神の子なら、飛び降りたらどうですか。天使たちが手で支えてくれるでしょうから」と悪魔はささやき、イエスを試すのです。イエスはこの誘惑に対しても、やはり聖書の言葉で答えています。「あなたの神である主を試してはならない。」これは申命記6:16からの引用です。

◆ 3番目の誘惑は、非常に高い山の頂に行き、そこから見える世の全ての国々とその繁栄している様子をイエスに見させた上で、「ひれ伏してわたしを拝むなら、このすべてをあなたに差し上げましょう」と言ったというのです。誘惑の場所はまず荒れ野、次に神殿の屋根、そして高い山へと引き上げられます。高い山の上で悪魔が言い放った言葉「ひれ伏してわたしを拝め」、これこそ、誘惑者としての悪魔が最初から狙っていたことでした。自分の足下にイエスをひれ伏させる。悪魔(ディアボロス)とは「そしり、中傷する者」という意味です。一度でもこの誘いに乗ったら、その途端、悪魔はその人を「そしり、中傷する者」に豹変し、支配するのです。

◆ イエスを誘惑しようとする悪魔が用いているキーワードは「あなた」です。新共同訳聖書では「あなた」がかなり省略されてしまっているのですが、この箇所は「あなた」を省略せずに訳しだしておいた方がその意味を読みとる上でヒントになると思います。たとえば3節は「神の子なら」となっていますが、ここは略さずに訳せば「あなたが神の子でしたら」です。6節も同様です。「あなたが神の子でしたら、下に身を投げてごらんなさい。それから8節は「ひれ伏してわたしを拝むなら、このすべてをあなたにさしあげます」となります。このように略さずに訳して読んでみますと、ここの登場する悪魔は、誘惑の手段としてなによりもまず「あなたのために」という姿勢を一貫して押し出していることが分かります。悪魔はイエスに向かって「あなたはそれができる」「天使もあなたを支えるでしょう」「あなたにすべてを差し上げます」という具合です。「あなたは/あなたの/あなたに/あなたを」とささやき続けるのです。悪魔はいつも「あなたのことを」「あなたのことだけを」考えているのですよとささやきかけてくるのです。裏を返せば、悪魔にとって一番あしらいやすい人間は「いつも自分のことだけ」を考えている人間だと言えます。

◆ 聖書が人間の基本的な在り方として提示し続けているのは「共に」ということです。神は人と人とが共にいるその間に働くのだと聖書は語っています。(ルカ17:20-21) 私たちは共にいることで創り主である神の働きを生き生きと覚えるのです。誘惑はこの神が働く場から人を引き離します。「あなたがた」と悪魔は呼びかけません。「あなたは」と呼びかけます。そして人を一人にするのです。「あなたは自分の力で何者かであることが出来る」「価値ある者として存在できる」とささやきかけるのです。イエスにささやきかける悪魔の言葉の中に「隣人への視点」はありません。あるのはただ「あなた」のみです。これは決定的な欠けです。根本的な欠陥です。イエスはこの決定的なものが欠けている生き方への誘いを退けた、それが荒野でイエスが悪魔の誘惑にあったという物語が語ろうとしている大切な内容です。

2016年2月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年2月28日(日)午前10時30分
復活前第4主日
説 教:「葛藤」
        牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
6章60~71節
招 詞:ガラテヤの信徒への手紙
2章19~20節
讃美歌:25、21、441、403、91(1番)
交読詩編:90;1-12

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
礼拝後、風の会があります。

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