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2016年5月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2016.5.1 ヨハネによる福音16:25-33 「わたしはあなたを独りにしない」      

◆ 救い主イエスの生涯は30数年の生涯の最後の3年間に集約されていきます。そしてさらにその3年間は最後の1週間、とりわけ最後の夜と十字架の出来事に集約されて行きます。福音書記者のヨハネはイエスの生涯をたどりながら、特に最後の夜の出来事に多くのスペースを割き、13章から最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った決別の言葉をずっと書き記しています。けれどもそこに記されているイエスの決別の言葉は別れの言葉であるけれど、しかし単なる別れの言葉ではありません。そのことをいちばんよく示しているのが16:16の言葉だと思います。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる。」

◆ 「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」とは「十字架の時をさしていますし、「またしばらくすると、わたしをみるようになる」というのは復活したイエスに出会うということです。25節によれば、そのことをこれまではたとえを用いて間接的に伝えてきたけれど、いよいよ十字架のときが迫ってきた今は、直接はっきりと伝えるとイエスは語ったというのです。二つのことをイエスは語りました。一つは27節「父ご自身が、つまり神が、あなたがたを愛しておられる」ということ、もう一つは28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」ということです。

◆ 「神があなたがたを愛している」とイエスは語ります。神が人を愛するということは、その人に行くべき道、生きて担うべき役割を語るという形で示されます。例えば使徒言行録1:8では、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とイエスは語りかけています。マタイによる福音書でも、イエスの最後の言葉は弟子たちに向かって「すべての民」に対する宣教を行うように命じる言葉であり、また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という約束であったと伝えられています。別れは来るけれど、その先に道があることを語り、別れの寂しさや悲しみ、辛さをその人が担えるように、顔を上げて歩みを続けることが出来るように備えるのが神の働き方です。悲しみや寂しさを消し去るのではありません。それを担って歩むことが出来るように神は働くのです。それはその人に役割があることを示し、さあまた歩み出しましょうと呼びかけることです。役割があるということは、つながりがあるということです。悲しみや寂しさを、自分ひとりだけで背負わなくてもいい。寂しい、辛い、その気持ちを語る相手がいる、そのつながりがあるということでもあります。悲しみを語ることは、ただ聞いてもらうだけではなく、悲しみを聞く人にも何かを与えるのです。

◆ もう一つ、イエスが語った言葉があります。32節「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時がくる。いや、既にきている。」これは十字架の出来事が起こったとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去ってしまうことをさしています。「神はあなたがたを愛している」とイエスは語るのですが、神が愛する「あなたがた」とは、イエスを見捨てて逃げ去ってしまう者であるということです。そのことをイエスははっきりと語ります。弟子たちがみんなわたしを見捨てて去って行ってしまうとイエスは語るのです。それは辛い状況です。その状況はイエスだから大丈夫だということではないはずです。

◆ そうであるはずなのに、「しかし」とイエスは語るのです。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」この言葉は実に奥深い言葉だと思います。イエスが語ったこの言葉と今を生きる私たちとを繋ぎ、いのちの中に共鳴を起こし、その奥深さを感じさせてくれる架け橋となるものがないだろうかと思うのです。

◆ 日本新聞協会は4月6日を語呂合わせで「新聞をよむ日」として4月12日までの1週間を「春の新聞週間」としています。その記念イベントとして読んで幸せになった新聞記事とその理由を募集し入賞作品を選んでいます。「HAPPY NEWS 2015」の対象に選ばれたのは川村玲子さんという横浜に住む62歳の方です。川村さんが取り上げた記事は、昨年の8月末の午後、横浜市営の路線バスの中で起こった出来事を報じた新聞記事でした。
 8月31日午後、15人ほどが乗った横浜市営の路線バスで母親の腕に抱かれた赤ちゃんがぐずり始めました。母親と友人の女性が2人であやしていたが、赤ちゃんは手足をばたつかせ泣き声は大きくなるばかり。友人は途中で下車し、母親は立ち上がりあの手この手であやすも泣きやむ気配はありませんでした。10分ほど経った時、車内アナウンスが流れました。「お母さん、大丈夫ですよ。赤ちゃんですから気になさらないでください。きっと眠いか、おなかすいているか、おむつが気持ち悪いか、暑いかといったところでしょうか」明るい口調でミラー越しに語りかけたのは、鈴木健児さん(46)。乗車歴20年のベテラン運転手でした。「迷惑をかけないよう何とかしたい、というお母さんの焦りをひしひしと感じた。今後バスや電車を使うのをためらうんじゃないかと心配になって」と振り返る。このやりとりがネットに投稿されるとツイッターなどで拡散され、「感動。まさにプロ」「運転手さん素晴らしい」などの投稿が相次ぎました。
 川村さんはこの記事を読んで自分が数十年前、まだ幼児だった娘を抱えてバスに乗ったときのことが思い出したというのです。乳児だった娘が「お腹をすかせる時間だ」と心配しながらバスに乗りました。しばらくして娘が泣き始め、乗客の男性から怒鳴られた。「ごめんなさい」と心の中で何度も繰り返した。その自分の経験から、記事に出てくる母親の焦る気持ちが痛いほどわかった。そして運転手の言葉がどれだけ母親を安心させたことだろうと、その情景が目に浮かぶようで「昔の自分も救われた」思いがしましたと記事を寄せました。
 鈴木さんのアナウンスは孤独をつながりの中に招く語りかけとなったのだと思います。自分を受けとめてくれる人がいることを知ったときに、人は自分が深く包み込まれて行くのを感じ、ここにいていいのだと思い、安堵の息をつくのです。イエスという人は、こういう気持ちの分かり方をして、いろんな人に語りかけた人だったのだと思うのです。

◆ 今日の箇所の最後に、私たちが深い慰めを聞きたくなったときに立ち戻って味わい続けてきたイエスの言葉が記されています。「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ここでイエスが「あなたがたは」と呼びかけているのは、イエスを見捨てて、イエスをひとりにしてしまうという破れをもった一人一人です。その一人一人に向かって、もっと違った自分になった時にはというのではなく、今のあなたに、そのままのあなたに「一緒にいる」とイエスは約束したのだとヨハネは伝えたかったのです。だから「勇気を出しなさい」と語りかけるのです。そしてそのままで勇気が出せるのは、あなたの中に力が増すからではなく、「わたしが既に世に勝っている」からだと宣言するのです。

2016年5月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年5月15日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第1主日
     ペンテコステ礼拝
説 教:「命の水面を風が渡る」
 牧師 望月修治
聖 書:使徒言行2章1~11節
招 詞:エゼキエル書37章4~6節
交読詩編:104:24-30
讃美歌:29、127、342、480、524、91(1番)

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