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2016年5月8日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2016.5.8 ヨハネによる福音書7:32-39「いつもの営み、いつもの働き」 望月修治   

◆ ユダヤの人々は実に長い間、メシアの到来を待ち続けてきました。そして彼らにとってメシアは、突然、予告なしにあらわれると考えられていました。そしてメシアがどこからやってくるのかは誰も知らないというのがユダヤの人々の考え方でした。未知な部分が多ければ多いほど神秘性は高まります。その人がどこからやってきたのか分からない.どこで生まれ、どのように育ったのかわからない、そのような未知の部分が神秘という魔力を生み、時には人々を惑わし虜にしてしまうこともあります。

◆ しかしながらこのようなイメージはイエスには全く当てはまりませんでした。ユダヤの人々にとって、イエスがどこから来たのか、どこで育ったのかについてはよく知っていたことであり、神秘のかけらもそこにはありませんでした。ですからイエスが30歳を過ぎて、突然始めた伝道活動は、人々に多くの戸惑いを与えたのです。そのことが40節以下に記されています。イエスは救い主なのか、預言者なのか、それとも「天から下ってきた」などといいまわる大ボラふきなのか。人々の間にイエスのことで対立が生じたと記されてもいます。

◆ 7章には、37節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますように、ユダヤの仮庵の祭という秋の収穫を祝う祭りを迎えて、多くの人たちがユダヤの都エルサレムに集まってきていた、その熱気と騒々しいまでに活気にみちた7日間を背景にしながら、そこで人々がイエスに対して示したさまざまな反応が書かれています。伝道活動をしながら旅を続けてきたイエスを取り巻く状況は、この年の仮庵の祭の頃から大きく変わろうとしていました。イエスへの反発が渦を巻き始めていたのです。その大きなきっかけになったのは6章に記されていますが、イエスが自分のことを「わたしは命のパンである。」、「わたしは天から降ってきたパンである」と語ったことによっています。その言葉に大きく反発して行く人々の様子をヨハネは6章に細かく描写しています。42節「これはヨセフの息子のイエスではないか.我々はその父も母も知っている」、60節「実にひどい話だ.誰がこんな話を聞いていられようか」と言って、多くの弟子たちさえもイエスのもとを離れ去り、もはや共に歩まなくなったのです。

◆ 事態は深刻さを増して行きました。このことを心配したのはイエスの身内の人たちでした。どんどんしぼんで行く状況をもう一度盛り返して勢いをとりもどさなければならないとイエスの兄弟たちは考えました。多くの人たちが各地からエルサレムに集まるこの時こそ、巻き返しのチャンスであること。だから今こそエルサレムに行くべきだ。そしてひとびとにアピールし、弟子たちを新たに呼びあつめるべきだとイエスに強くすすめます。しかし兄弟たちのこの進言をイエスは拒否しています。7:8-9 「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上っていかない。まだ、わたしの時が来ていないからである」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられたと記されています。

◆ けれどもイエスは、兄弟たちが祭りを祝うためにエルサレムに向かった後、人目をさけながら、ひそかにエルサレムに行ったとヨハネは7:10に記しています。このエルサレム行きの持つ意味は何なのでしょうか。形の上では、兄弟たちが進言したのと同じ行動を結局とったということになりますが、しかしそれは、兄弟たちが意図したような勢いを取り戻すとか、人々にアピールして新たに弟子たちを獲得するためではないことを、ヨハネはこうした書き方をすることで明確に示したかったのではないかと思います。

◆ エルサレムにはイエスについてのさまざまな噂や興味が渦巻いています。その多くは、これまでイエスが示してきた不思議な働きや出来事に対する表面的な興味であったと思われます。人の病気を癒すとか、五千人の人たちの空腹をパン5つと魚2匹を配ることで満たすといった出来事が、人々の興味と期待をあおることになったのは事実です。人はいつも刺激を求めます。一つの刺激に慣れてくると、また新しい刺激を求めます。そしてそれが与えられなくなると興味や意気込みを失ってしまうのです。奇跡を求めると、さらに次の奇跡を求め、そのことによって得られる刺激や驚きを得ることが目的のようになってしまいます。宗教とはそういう刺激を得ることのように考えてしまう。そして当初の新鮮さが失われていくように感じ出すと、生ぬるいとか熱心さが足りないと言って、去って行ってしまう人がいます。

◆ イエスの生き方を見て行く時、確かに奇跡と呼びうるような業と働きを行ったと伝えられています。ですから私たちの関心もそこに集まりがちです。けれども福音書の記事を読んでみるとき、そのような奇跡的な業をどんどん繰り出して人々の関心を引きつけることをイエスは目指したのではないことが、静かに、しかし確かに浮かび上がってくるのです。7章に記されているイエスの行動はそのことを示しています。人目を避けながらエルサレムに上って行ったというイエスは、何をしたか。7:14に「祭りも既に半ばになったとき、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた」とあります。「教え始められた」と訳されている文章は、原文では未完了過去形という時制で書かれています。どういうことを表すのかと申しますと、この教えるという行為はこの時1回きりとか、はじめてということではなく、その行為が以前からずっと継続されてきたこと、いわば習慣になっていることを示します。

◆ イエスに更なる奇跡をもとめる人々の薄っぺらな興味や関心、いっぽうでそれと背中合わせのように競り上がってくる反感や殺意が渦巻くエルサレムで、イエスがとった行動は神殿で人々に教えるという、これまで繰り返し行ってきたことでした。これと同様のイエスの姿を他の福音書の中にも見いだすのです。たとえばマルコ福音書10:1には「イエスは・・・群衆がまた集まったので、いつものようにまた、教えられた」とあります。ルカ福音書4:16では「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり」とあります。また同じルカ福音書22:39-40には「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから彼らに言われた。『誘惑に陥らないように祈りなさい』」 いずれも「いつも」と訳されている言葉は同じ言葉(エートス)です。この言葉は習慣となるほどに身に付いた心情、性格、行為、生活を表します。人々の興味や期待あるいは反発や殺意が渦巻く中で、イエスが示し続けたのは「いつものとおり」「いつものように」ということでした。表面的な刺激や、目先を変えるような手段や方法ではなく、いつもの営み、いつもの働き、いつもの振る舞いであったと聖書は伝えています。いつものように会堂に入り、いつものように教え、いつものようにオリブ山に行き、いつもの場所に腰を下ろす。このイエスの姿に、私たちが失いかけている大切なありかたがあるのではないかと思います。

◆ 仮庵の祭がクライマックスを迎えようとする、祭りの終わりの日にイエスは立ち上がって大声で言ったと37節にあります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」この時イエスはいつものように神殿の境内に入り、いつものように教えていたのです。「わたしのところに来て」という招きは、いつものイエスのもとに来なさいという招きです.その出会いが「生きた水が川となって流れ出る」という命の渇きを癒す水、癒しの働きに出会うのだというのです。

2016年5月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年5月22日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日
説 教:「真理の霊、永遠の命」
 牧師 髙田 太
聖 書:テモテへの手紙16章11~16節
招 詞:ヨハネによる福音書16章13節a
交読詩編:37:23-40
讃美歌:26、3、343、346、91(1番)

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