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2022年7月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書6章1~13節 「神の招きと派遣」 菅根信彦

★ イエスは生まれ育ったナザレの町では人々に受入れられなかったようです。「神の国」の訪れを告げる宣教活動の難しさがマルコ福音書6章の冒頭に綴られています。この物語を読んだとき、ふと室生犀星の「抒情小景」の一節を思い出しました。「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」のフレーズです。室生犀星(1889~1962年)は石川県金沢市生まれの詩人・小説家、本名は室生照道。彼の生い立ちは不幸で、両親の顔を覚える間もなく養子に出され、7歳の時に実家近くの寺院の住職であった室生家に引き取られていきます。おそらく、犀星の「犀」は、金沢市通り日本海に流れる阿武隈川の支流の犀川から取ったペンネームであると言われています。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、彼はこの川の風情と上流に見える山々の景色をことのほか愛したと言われていますが、ほとんど故郷金沢には帰らず東京の住まいには犀川の写真を飾って故郷を思いだしていたと言われています。決して幸福とは言えない自分の出自、幼児体験、そして、育てられた環境からの数々の束縛、しかしなお、故郷の情景を思って忘れることができない、その故郷への複雑な心境をもっていた人でもありました。多くの詩人や作家が童謡や唱歌など「故郷」を題材にした作品を描いているように、私たちも故郷・郷里への思いは、時に懐かしく思ったり、その反面ある種の閉鎖性に嫌気がさしたり、複雑な思いに駆られるときがあるかと思います。

★ イエスもまた故郷をもち、故郷への宣教活動を試みます。それが、「ナザレ訪問の物語」です。「故郷」はギリシア語で「パトリス」といいますが、ギリシア語の用例では、むしろ「生まれた土地」「生まれた町」を意味します。この個所の場合、明らかにイエスの出生地という意味として記述されています。マルコ福音書の著者は、ヨハネ福音書同様に、イエスの「ベツレヘム誕生の物語」を知らなかったのでしょう。あるいは、ダビデの家系を示すあの「ベツレヘムの誕生」を支持していなかったと考えられます。イエスはナザレで生まれ育ち、ナザレこそがご自身の郷里となっていたと理解しています。

★ イエス一行は当時宣教の拠点であったカファルナウムを去ってナザレに向います。「弟子たちも従っていった」との記述から宣教活動のためにナザレに出向いていったのだと思います。そして、会堂で教えるイエス。その話と知恵と力ある業に驚くナザレの人々。しかし、ナザレの人々は、「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンではないか、姉妹たちは我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)と、イエスの宣教の働きそのものに拒絶の声を上げていきます。「血縁の関係」「親しさ」は、イエスの力ある業、神の子としての「神性」を拒絶していきます。このように、ナザレでの伝道活動は成功しなかったことは事実です。そして、このナザレ伝道の厳しい展開の中で、「十二弟子たちの派遣」(6b~13節)が行われます。

★ イエスによって呼び集められた弟子たちは「使徒」(3章13節)と名付けられます。これは「特別な使命を委任されたもの」「派遣された者」との意味がある言葉です。「12人」とは「ユダヤ人キリスト教徒の理念としてのイスラエル12部族の象徴である」ことは間違いないところでしょう。

★ ところで、私たちが集う教会は、ギリシア語で「エクレシア」といいます。これは、キリスト・イエスによって召し集められた共同体との意味です。その意味で、教会は第1義的に言えば確かに「集まり」であるわけです。教会は、イエスの名によって集まり、神を礼拝する群れです。その意味で教会は「礼拝共同体」ということもできます。それは、同時に、「集められること」で終わるのでなく、「この世に派遣される」「散らされる」ことによって、教会即ち集められた民は動的な命をもつと言うことです。教会を教会足らしめる聖霊の働きは、「集める霊」であると同時にこの世に向かって、弟子たちを送り出す「派遣の霊」でもあるのです。即ち、教会は「招きと派遣」という使命が切り離されないものとして初代教会の最初から理解されていたということです。招きと派遣という命のリズムを作るような営みそのものが教会であるということです。

★ そのことは、礼拝の式順序をみるとよくわかります。礼拝の最初は、「招きの言葉」(招詞)で始まります。聖書の招きの言葉が読まれて始まります。そして、讃美と聖書の解き明かし、告白や悔い改めがなされ、献身の徴である応答(献金)がなされます。そして、最後に「派遣の言葉」と「祝祷」で終わっていきます。すなわち、教会は、招き集まり、神を讃美し、神の言葉を聞くと同時に、その言葉をもって、この世にその言葉(福音)を伝えていくという使命をもっている存在であるのです。ですから、教会は証しすること、仕えること、さらにイエスの愛と赦しを示し、伝えるということを大事にしているのです。

★ ただし、この世に派遣される弟子である「使徒たち」は、決して「人間的に立派である」とか、「イエスの御心を十全に理解していた」というような存在として描かれているわけではありません。ペトロしかり、ヨハネやヤコブも同様です。マルコ福音書はその不甲斐ない弟子たちの姿を書いています。イエスは欠けたる者、弱さをもつ者、理解途上の者を敢えて自分の代理者として招き派遣していたということです。イエスは「二人ずつ組にして」しかも「杖一本の他何ももたず」(8節)出発することを命じます。二人1組は一人旅などの習慣がなかった時代背景もありますし、また、証人は複数でなければ客観性がないとの真実性を表すために二人とも取れます。しかし、私は、欠けたる者たち、理解途上の者たちがその欠けを補い合いつつ派遣されていく姿として見ていきたいと思うのです。それは、宣教活動や伝道が一人の優れた賜物・カリスマ・個人の資質でなされるのではなく、弱さを抱えた者同士の共同の歩みから始まることを示しているように思います。さらに、「杖一本」は他のことに頼らない、多くのものを断念していく「生き方の象徴」ではないでないかと思います。言葉を変えていえば、「神と向き合って生きること」の象徴です。

★ 宗教改革者のカルヴァンは「神が人間の宣教という不完全な方法を用いるのは、そのことを通して、人間と人間が結ばれ教会が生まれるためである」と語っています。この恵みの逆説性こそが、教会の交わりを作り、私たちがキリストの証人としてこの世に押し出されていく原動力となるのです。その神のはからいと恵みを受けるために、敢えて、この世に送られてイエスを証しする生活へと導かれていきたいと思います。

2022年7月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年7月17日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第7主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「神の慈しみと峻厳さ」
              牧師 菅根信彦
聖 書:ローマの信徒への手紙11章11〜24節
招 詞:詩編51編12〜14節
讃美歌:24,357(1・3・4節),528(1・2・4節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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