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2022年7月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書6章1~13節 「喜びにあふれて」 菅根信彦

★ 本日の聖書個所は「フィリポとエチオピアの高官の物語」です。この物語から良き訪れとしてのキリスト・イエスの「福音の受容」と応答としての信仰生活の原動力の一つである「喜び」について学んでいきたいと思います。特に、福音を受容した高官が「喜びにあふれて旅を続けた」(39節)という言葉に注目したいと思います。使徒言行録によれば、聖霊降臨の出来事を経験した使徒たちは、エルサレムからサマリア全体への伝道を行い、フィリポは「エルサレムからガザへ下る寂しい道へ行きなさい」(26節)という言葉に従うことから物語は始まります。一人の異邦人の救いのために、心を砕くようにフィリポが遣わされていく様子が映し出されています。

★ しかも、この物語はある「さわやかな情景」を私たちに与えてくれます。「馬車に乗りながら聖書を読む高官」「並んで走るもう一台の馬車」「高官が手引きを求めたその個所がイザヤ53章の僕の歌」。さらに、「旅の途上の洗礼式」「洗礼を授けたフィリポは消え去り」、洗礼を受けた高官は「喜びに溢れて旅を続ける」という情景がテンポよく描写されています。このモチーフは、「旅するイエス」を描くルカ福音書、特に、イエスの死後、失意を抱いてエマオに旅する弟子たちに、そっと同伴し旅を共にする「復活のイエスの顕現物語」(24章)と類似しています。失意にある二人の弟子たちは、夕食を共にしてパンを裂く同伴者の姿を見てイエスと気付き、喜び勇んでエルサレムに戻りますが、この二人の弟子たちの描写と重なり合います。ルカ文書の旅するイエスのモチーフがここでも表現されています。

★ もちろん使徒言行録では復活したイエスは天に上げられ、その喜びの導き手はもはやイエスではないことを前提にして、今度は「聖霊の導き」によって福音が述べ伝えられていくことが強調されています。今日の個所も印象的に記しています。26節冒頭には「主の天使は」(26節)、「“霊”が」(29節)、「主の霊が」(39節)との表現のように、重大な働きを導く神の業を暗示する言葉が主語として随所に配列されいることからも分かります。

★ さて、この「エチオピアの高官」は「女王カンダケの全財産を管理していた宦官」でした。「エルサレムに礼拝にきて、帰る途中であった」(27節)とあるように、長い巡礼の旅を厭わずに行なう「篤きユダヤ教の信仰者」であったに違いありません。「エチオピア」(「イティオプス」に由来し「日に焼けた人々」の意味)という地名は、へブル語では「クシ」と呼ばれた地域で、ナイル川の上流の東岸から紅海に至る間にある地域をさします。住民はハム系。「カンダケ」と呼ばれる女王は歴史的に数名いたことが分かっています。

★ その高官が礼拝の帰りに馬車に乗りながらイザヤ書の「苦難の僕」の個所(53章7~8節)を読んでいました。その朗読の声を聞き、フィリポは彼に「読んでいることがお分かりになりますか」と話しかけるのです。フィリポは、これこそが「十字架のキリスト・イエスのである」と指し示します。そして、この解き明かしに感銘を受けた高官は「洗礼を受けたい」との意思を表明いたします。そして、フィリポは洗礼を授けます。このようにして彼は洗礼の恵みに満たされながらエチオピアに帰っていく展開となっています。しかも、使徒言行録では、異邦人が洗礼を受ける最初の物語となっています。

★ 実はこの洗礼に関して、今日の箇所では触れられておりませんが、この高官は大きな難問を抱えていたはずです。それは彼が「去勢された宦官である」ということです。「宦官」というのは、古代オリエント・ギリシア・ローマ世界や古代中国などに古くから見られるもので、王の側近として権力の世襲を防ぐためにこのような制度が始まったと言われています。しかし、申命記に「去勢された者は、主の会衆に加わることは出来ない」(23章2節)とあるように、彼は信心深い者であったとしても部外者以外の何者でもない存在として自己規定していたに違いありません。そのような疎外感を抱く高官に、フィリポは「イエスについて福音を告げ知らせた」とあるように、彼はおそらくイエス・キリストという方の救いの本質を語ったのであろうと思います。それはキリスト・イエスこそが、全ての人の罪のために苦しんだ方であるという使信と、全ての者が区別なく救いに与ることができるとの説明であったはずです。それ故に、救いの約束の徴である洗礼を懇願したのだと思います。まるで、キリスト・イエスによって示される「信の世界」に分け入るような姿を見ます。

★ カトリック信者で精神科医であり小説家の加賀乙彦は、『受洗記』というエッセイを書いています。加賀にはキリスト教への関心が若い時からあり、キリスト教への知識もあり、後に上智大学で教鞭をとられてからは神父との出会いや交流もあったことを語っています。イエスは尊敬したが、教会とは無縁でありたいと考えていたようです。しかし、一方で知識だけでキリスト教を知ることの虚しさを感じていったようです。ある時、思う限りの疑問を神父にぶつけて3日目、納得したわけではないが、ある瞬間、突然「何も質問することが無くなった」とき、一条の光が自分の心の奥底まで照らされ、心が風にのって漂う感覚に襲われたそうです。そのとき喜びが身心に満ちたと伝えています。加賀はその時の心境を「言ってみれば知識が飛び去り、一気に信仰の世界に入った。イエス・キリストを百パーセント信じて、イエスの十字架と復活の生涯に自分を参加させたいとの内なる衝動であり喜びであった」と語っています。「その一歩を踏み出した時、自分は駄目な人間、罪深い人間だという謙虚とそれに伴う非常なかつて経験したことがない喜びだけであった」と告げています。

★ エチオピアの高官も同様で、キリスト・イエスの「信の世界」に分け入るような姿を見ます。それは、同時に、私と言う人間、私という存在、私という人格をあるがままに受けとめられる「信の世界」が確かにあり、そこには愛と真実な方イエスがいることに気づかされていったようです。その時にこそ、「そのままで生きてよい」「一人ではない」との大きな喜びが与えられることが示されていきます。その喜びの積み重ねが信仰生活を豊かにしていくのです。さらに、キリスト・イエスを知った喜びを述べ伝えることの原動力となっていくのです。

2022年7月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年7月24日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第8主日
於:静和館4階ホール
説 教:「神の家」
             伝道師 大垣友行
聖 書:テモテへの手紙Ⅰ 3章14〜16節
招 詞:詩編119編129〜131節
讃美歌:24,192(1・2・4節),520(1・2・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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