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2014年5月25日(日)の説教概要 [説教要旨]

先週の説教要旨  復活節第6主日 2014年5月25日                    
ヨハネによる福音書16:12-24  「再会の約束」

◆ イエスは30歳近くになるまでの年月の大半を、ナザレで過ごしたと考えられます。大工をしていた父ヨセフとともに少年期から青年期を迎えたイエスもまた、大工としての仕事を日々の生業としてきたのだろうと思います。そのイエスがキリスト・救い主と呼ばれていくのは、公生涯呼ばれる晩年の3年間の歩みによるものです。イエスの生涯はこの3年間、さらに絞り込めば3年間の最後の1週間、とりわけ最後の夜と十字架の出来事に集約されて行きます。

◆ 福音書記者のヨハネはイエスの生涯をたどりながら、特に最後の夜の出来事に多くのスペースを割いて描いていきます。決別のときを迎えて、文字通りすべてを注ぎだすかのようにイエスは語り続けます。福音書記者のヨハネは13章から、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った決別の言葉をずっと書き記しています。このように長いスペースをとってイエスの最後の言葉を記したのは、この福音書が書かれた紀元90年代という時代状況と深く関わっています。この時代のキリスト教会は大きな問題に直面していました。紀元70年にユダヤの都エルサレムはローマ軍によって占領され、神殿は跡形もないほどに崩壊しました。これは当時のユダヤ教やキリスト教会にとっていろいろな意味で重大な影響をもたらす出来事となりました。ユダヤ教はそれまで権威の象徴であった神殿を失ったことで保守化し、自らと違うものに対して排他的な姿勢を強めて行きました。そのためキリスト教会は危機に見舞われます。ユダヤ教の側から異端だとして迫害されるようになり、それまでのように同じ会堂に集えなくなりました。会堂を追われるということは、ユダヤ社会から追放されることと同じでした。ヨハネが属していた教会の人々が選択を迫られたのは、イエスを主と告白する信仰にいきるのか、それとも会堂から追放されることを恐れてユダヤ教の枠の中に再び戻っていくのか、そのどちらを選ぶかということでした。同じユダヤ人であるユダヤ教の側からの激しい迫害にさらされる中で、教会の人たちは文字通りイエス・キリストが見えなくなっていくという危機に立たされていったのです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」(16:16)というイエスの言葉は、このような状況に置かれた教会の人たちにヨハネが書き記したものです。この言葉は十字架の時をさしています。明らかに別れの言葉です。しかしながら、単なる別れの言葉ではありません。そのことをいちばんよく示しているのも16節の言葉です。「またしばらくするとわたしを見るようになる」。これは復活したイエスに出会うことを意味しています。

◆ 十字架と復活、これはキリスト教会の信仰の基盤です。キリスト教の教会は十字架で死んだイエスがキリスト、救い主、主であると受けとめ、信じて告白していった人たちが集まって礼拝をしたところから始まっています。キリスト教はイエスの死、十字架の出来事を覚え続け、記念します。しかしながら一人の人の死の意味を理解する、納得するというのはそう簡単なことではありません。たとえば人生半ばにおける自分の夫、自分の妻、自分の子供の死、あるいは親しい友人など愛する者の死に出会ったとき、人は特に強く「何故」と問い、その答えを激しく求めます。

◆ イエスは自ら弟子たちに十字架の死について語りました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」このイエスの言葉は弟子たちには謎めいた言葉のように聞こえた。それは17節、18節で弟子たちがこの言葉を繰り返し口にし、意味を汲み取れない戸惑いを語り合っていることから分かります。17節:そこで弟子たちのある者は互いに言った、「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。 18節:また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

◆ 「またしばらくすると、わたしを見るようになる」。弟子たちにとってこの後半の言葉の方が分からなかったようです。イエスは十字架に掛けられ死ぬのだと言う。「死ぬこと」を私たちは「永遠の別れ」と呼びます。死んだ者は永眠すると言います。それが死という出来事についての私たちの理解です。それなのに、なぜイエスは、またしばらくすると、ほんのわずかな時をへて、あなたがたはわたしを見るなどと言うのか。それだけではありません。「わたしを見るようになる」その時にはあなたがたは心から喜ぶことになる。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はいないとさえイエスは語ります。よみがえったイエスと出会ったら、あふれるほどの喜びに心も体も躍り上がるであろうという、そのことは確かによく分かります。よく分かるのですが、・・・・「しかしな・・・」と思われないでしょうか。理屈としてはよく分かる。けれども復活したイエスと出会うというのは、現実的にはどのようなことなのか。私たちは今生きている状況の中で、どういう形で「またしばらくすると、わたしを見る」と語られていることを自分の体験とすることが出来るのだろうかと思いが巡ります。

◆ 那覇市に住む上地寿子さん(49歳)が夫を亡くして8ヶ月が過ぎて、夫の死と向き合いながら心の思いを綴った投書が以前、新聞に載っていました。
 “へそ曲がりの私はたった五文字の「ありがとう」をいつも言えないでいた。感謝の気持ちはあるのに、言葉にしてしまうと何だか軽くなる気がして。あなたが遠い空のむこうに旅立ってからもう八ヶ月、最後の最後にも、やはり「ありがとう」の言葉は出てこなかった。どうして先に逝っちゃうの、私をおいて逝かないで。責める言葉ばかり。悲しくて、つらくて、心が張り裂けそう。友の、家族の「頑張れ、病気に負けるな」の声を力に、「生きるんだ」とつらい治療にも耐えた。でも運命には逆らえなかった。過日、見知らぬ人に声をかけられた。「あなたのご主人に励まされ、入院生活に耐えることができました。ご自身も大変な病気でありながら、病棟の人たちに『頑張れ、早く家に帰れるように』と励ましていた」と話してくれた。何度も「ありがとう」と私に手を振って。遅くなったけど、今、素直に「ありがとう」と言えるようになった。宝物(息子二人)を残してくれてありがとう。素直じゃなかった私を素直にさせてくれてありがとう。生きるということの素晴らしさを教えてくれて、幸せな時間、人生を共に歩んでくれてありがとう。あなたという大きな傘の下で守られてきた家族。これからは私が傘になり、子どもたちを守っていきます。今度あなたに会えた時に、「頑張ったね」とほめてもらえるように。たくさんの「ありがとう」と引き替えにあなたの笑顔にもう一度会いたい”
夫が病床で同じ病棟に入院している人たちを励まし、その励ましに支えられて病気が癒え退院した人がいた。そのことを知ったとき上地さんの「なぜ」という問いは納得を得ました。もう一つの命を生かして夫は旅立ったことを知った。それは見えなくなった夫に出会い直す体験であったからだと思うのです。

2014年6月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年6月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ
説 教:「故郷の言葉を聞いた日」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録
2章1-11節(新約p.214)
招 詞:ヨシュア記1章8-9節
讃美歌:24、149、346、67、524、91(1番)
交読詩編:122(p.142上段)

※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
どなたでもお越しください。

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