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2014年7月27日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2014年7月27日   テモテへの手紙Ⅰ 3:14-16 「神の家での暮らし方」 

◆ テモテへの手紙Ⅰが今日の聖書箇所です。テモテとはいかなる人物であったのでしょうか。使徒言行録によりますとテモテの母親はユダヤ人、父親はギリシア人でした。パウロがテモテと出会ったのはガラテヤのリストラという町でした。そしてコリントの信徒に宛てて書いた手紙(Ⅰ 4:17)の中で、テモテのことを次のように紹介しています。「彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」。パウロはテモテに絶大な信頼を寄せていました。そのことを伝える文面が、フィリピの信徒への手紙の中に出てきます。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(2:20)。テモテに寄せる信頼の深さが伝わって来ます。ただし、テモテへの手紙の発信人はパウロではなく、彼の信仰の遺産を受け継いだ弟子、あるいは後継者によって書かれた手紙だと今日、考えられています。

◆ 今日読んでいます3:14-16は、この手紙の頂点とも言われている箇所で、特に15節では、この手紙が書かれた目的が明記されています。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」からであり、「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会」のことだと記されています。教会が「神の家」であると述べられています。さらに16節には「キリストは肉において現れ、"霊"において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」とありますが、これは、初期の教会の「キリスト賛歌」の一つです。教会で歌い継がれていた信仰の歌、神の働きを讃美する歌です。イエス・キリストの生き方を通して明らかにされた神の働きを土台とすることが神の家であることの基本であるとこの手紙は書いています。それは今の私たちにとって、どのようなことなのかを考えてみることが必要です。それは、イエスがどのように生きたか、それをたどりなおすことによって見えてくるのだと思います。

◆ 福音書記者のマタイは、イエスの生き方の基本を、その誕生物語の中に記しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」その名は、「神は我々と共におられる」という意味である。神は私たちと共にいてくださる。どんなときも、どんな私たちであっても、その私たちと、そのときのわたしの傍らに一緒にいてくださる、そのことをイエスは自らの生き方において示したのだということをマタイはイエスの物語の最初に描き込みました。「神は私たちと共にいて下さる」そのことをわたしたちは知識としてはよく知っています。しかしながら、そのことが体験になかなかならないのです。身にしみ込むようにそのことに気づき、そして生きることが出来ないのです。だから人は自分の立場、自分の見方、自分の主張、自分のプライド、自分の正しさにこだわり、その自分を守るために裁き合ってしまうことを引き起こしてしまうのです。

◆ 韓国のフォーク歌手楊姫銀(ヤン・ヒウン)が「人生の贈り物」という詩を書いておられます。1980年代、韓国が軍事政権下にあった時代に、ヤンさんの歌う歌は、民主化闘争を担っていた人たちに指示され、歌われました。そのため彼女は、時の政府から、大衆を煽動させる歌手だとされて国外追放処分を受けた時期もありました。その間にがんを患い闘病生活を送ったこともありました。そのようなさまざまな体験が織り込まれた詩です。その詩の中に、次のような一節があります。「季節の花が これほどに美しいことに/歳を取るまで 少しも気づかなかった/私の人生の花が 散ってしまう頃/やっと花は 私の心に咲いた/並んで座って 何も言わずにうなずきながら/私の心がわかってくれる友が生きていれば/並んで座って 沈む夕日を/一緒に眺めてくれる/
友が居れば 他になにも望むものはない/それが人生の秘密  それが人生の贈り物」
 「並んで座って、何も言わずにうなずきながら、私の心がわかってくれる友が生きていれば」とヤンヒウンさんは詩に歌っておられますが、人は本当にしんどいときには、他人にことばをあずけません。ですからいきなり「さ、聴かせて下さい」と言う人には口を開きません。黙り込んでいたこどもが、母親が炊事にとりかかると逆にぶつくさ語りはじめるように、黙ってただ隣にいるだけの人の前でこそ人は口を開くのではないか。

◆ 先週の木曜日、教区の災害対策委員会があり、委員ですので出かけてきました。東日本大震災から3年半になります。ボランティアの支援活動の内容も震災当初とはかなり違ってきています。仮設訪問、ラジオ体操、お茶っこ、仮設住宅や復興団地での昼食会など、被災された方たちと一緒に過ごしながら語られる話を聞くという支援活動が広がっています。被災地で、多くの人が「語りなおし」を迫られています。自分という存在、自分たちという存在の語りなおしです。アイデンティティ(自分が誰であるかの根拠となるもの)とは「自分が自分自身に語って聞かせる物語」だと言った人がいます。震災で親や子をなくし、家や職を失った人たちは、そうした理不尽な事実、納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け容れるためには、自分がこれまで編み上げてきた物語を別な形で語りなおさなければならない。語りなおすというのは、自分の苦しみへの関係を変えようとすることです。自分が味わってきた苦しみ、悲しみ、痛み、悔しさ、無念さへの視点を変えて向き合い直そうとすることです。そのためには聞き手が必要です。自分が編んできた人生を語りなおすことは、時に長い沈黙をはさんでとつとつとしかなされません。聞き手はその沈黙に耐えきれず、つい語る人の言葉を先取りして「こういうことを言いたいんでしょ」と口を挟んで自分の解釈を並べる。やっと相手から出かかった言葉を、ついつい聞き手が迎えに行ってしまうことがあります。そうすると語りなおしが止められてしまい、その言葉はこぼれ落ちないまま、また内側に留まってしまいます。聴くというのは、思うほどたやすいことではないのだと気づかされます。イエスは人の思いを、一人ひとりが飲み込んでいる言葉を聴いた人です。次の言葉が語られるまで、時には長い沈黙の時間をイエスは遮らなかった人だと思います。そのつながりの中に置かれることで人は「神は共にいる」ことを深く味わったのです。もしイエスが相手の言葉をすぐに引き取って、矢継ぎ早に神のことを語る人であったら、聞き手は重荷に感じ、距離を置いていっただろうと思います。それは私たちの間でも同じです。

◆ イエスは、話を聞きに集まって来た人たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ福音書15:15)と語りかけたことがありました。「並んで座って、何も言わずにうなずきながら、私の心がわかってくれる友が生きていれば、並んで座って、沈む夕日を一緒に眺めてくれる友がいれば、他になにも望むものはない。」人生にとって何が大切なことか、何が一番大事なことか、それをその人が深く知って生きることが出来るように、そしてそのことに人が気づいていこうとするとき、そっと背中を押すことができるように、神はどんなときも私たちの傍らに一緒にいてくださる、それが神から私たちの人生への贈り物なのです。

2014年8月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年8月10日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第10主日
説 教:「いきることの仕組み」
牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅰ
12章12-26節(新約p.316)
招 詞:マルコによる福音書9章33-35節
讃美歌:27、19、510、543,91(1番)
交読詩編:94:8-15(p.104上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。暑い日が続いていますので、お体に気を付けてお過ごしください。


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