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2014年6月29日の説教概要 [説教要旨]

説教要旨  2014年6月29日(日)  使徒言行録16:16-24 「偽りの告訴」      

◆ ユダヤの地で生まれたキリスト教が、ユダヤという限られた地方の枠を越えて、アジアやヨーロッパ世界という、ユダヤ人から見れば異邦人世界にまで広がって行くことになったのは、パウロの働きを抜きにしてはおそらくありえませんでした。具体的には3回にわたって彼が行った伝道旅行によって各地に設立されていった教会が、いろいろな問題を抱えてはいましたが、イエス・キリストの福音を人々に伝える拠点となっていきました。使徒言行録のパウロの伝道の旅の記録を読みますと、その旅は予定変更の連続であったことが分かります。

◆ 16章もその予定変更の旅の記録です。8-10節に次のように記されています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシアの地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けて下さい』と言って、パウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と記されています。

◆ アジア州というのはエーゲ海に面した一帯を言います。パウロは当初、このアジア州の中心地であるエフェソをめざしました。エフェソは当時人口25万人を擁する大都市であり、その周辺にもいくつもの都市が発達していて、その町で生活しているユダヤ人の数も少なくありませんでしたから、格好の伝道の候補地と考えたのです。目の前にはエフェソへと通じる幹線道路が続いているのも関わらず、何らかの理由で、・・・・使徒言行録には「聖霊から禁じられて」と書かれていますが、西に向かうことを断念し、北のビティニアへ向かおうといたします。ところがまたもや今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」ので、今度も予定を変更させられ、ミシア地方を通ってトロアスというエーゲ海沿岸の港町に行き着いたのです。同じエーゲ海に面してはいますが、当初目指したエフェソからは200キロほど北に位置する町です。

◆ 予定の変更は更に続きました。行き先を変更させられてようやくやってきたトロアスの町で、パウロは一つの夢、あるいは幻を見て、急遽、エーゲ海を挟んだ向こう側のマケドニア、すなわちヨーロッパ世界に渡って行くことになったということが書かれています。

◆ この世の中では、予定を変更せずに、自らの作った計画通りに歩む人が評価されます。事実、予定変更することによって、人に迷惑をかけることもあります。しかし一方で、人生には予定を変更せざるを得ないことが起こります。それも自分の弱さや失敗や力不足で予定を変更せざるを得ない理由であることが少なくありません。そんな時、予定変更は後退あるいは敗北と見なされたりもします。そのようなことが重なりますと、予定通り着々と進んでいる人がたまらなくうらやましくなります。

◆ 今日の箇所には予定変更がパウロたちにもたらした出来事が記されていますが、こんなことになるのならと後悔してしまいそうになることが起こりました。幻で見たことを神の意志だとうけとめて予定変更してやってきたマケドニア州のフィリピというローマの植民都市で、パウロ一向にまとわりついていた占いをする女に、パウロは「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言い、彼女の取り付いていた霊を追い出したというのです。しかし霊が出て行ったため、彼女から占いの力が失われたため、彼女を使って金儲けをしていた主人たちから、パウロとシラスは偽りの理由をでっち上げられ告訴されてしまいます。二人は捕縛され、何度も鞭打たれた上に牢に投げ込まれ、逃げ出さないようにと木の足枷まではめられてしまうという事態が降り掛かりきてしまいました。

◆ 予定変更は時に辛い体験となります。予定変更のあと、深く落ち込んでしまうこともあります。しかし予定変更は、自分が設計図を書いて歩む人生ではなく、与えられる出会いを通して育みがもたらされ、新たな道が描き出される、そのような命の設計図の描かれ方があることを教えてくれます。

◆ 私自身、今こうして牧師をしていることは思いがけない予定変更の結果です。牧師という仕事は、当初の私の選択肢の中には全くなかったことでした。大学に入る時、神学部を受験する、つまり牧師を目指そうなどということは頭の片隅にもなかったことでした。大学の学部の4年間は社会福祉を学びました。その間、神学書に関心が向くということは皆無だったといっても言い過ぎではありません。そんな人間がなぜ牧師になったのか、何か決定的な出来事や体験があったのかと言えば、そんなことは何もありません。4回生になって学生生活も最後に向かう時にさあこれからどうする、と誰もが考えることを私も考え始めました。その時に思い浮かんだことの一つになぜか「牧師という道もあるな」ということでした。その時は選択肢の一つとして思い浮かんだという程度のことでした。その程度のことだった「牧師」という二文字がなぜか消えずに残り、いつしか広がりはじめたのです。その思いの広がりにひとつ応えてみようかと思ったことで、大きな予定変更が起こりました。神学部の大学院に編入し、さらに3年間、合計7年間の学生生活を同志社大学で送る結果になりました。私は姉が重度の知恵遅れという障がいを持っているという家庭環境の中で育ちました。それから中学生になるまで教会という世界、聖書という世界を全く知りませんでした。高校時代から京都での学生生活に至る時期に、先輩や牧師、あるいは大学の教師といった、いくつかの心を掘り起こされる出会いがありました。それらの出会いの出来事一つ一つが大きな予定変更の背景にあったのだと今は思っています。

◆ そのような自分の歩んできた道を今日の箇所にふと重ね合わせながら、パウロが「聖霊によって」「イエスの霊によって」という表現で語っていることの背後に、彼自身が体験した具体的な出会いの出来事があったのだろうと思いが広がっていきました。そしてその出会いの不思議さの中に、神の働きを感じとり、「聖霊によって」あるいは「イエスの霊によって」という表現にその思いが託されたのです。パウロの人生、パウロの旅は予定変更の連続した。

◆ そもそもイエス・キリストもいつも予定変更していました。旅をしていると、いつも声をかけられ、衣の袖や裾(すそ)を引っ張られて歩みを止めました。そしてそこで出会いが生まれ、大きな予定変更をその人の人生にもたらしました。寄り道をし、歩みを止めたイエスに、人々は愛を感じました。そして最後に大きな予定変更がありました。それは十字架です。福音書の物語によれば、イエスは三度に渡って自らの受難予告をされたというのですから、確かに十字架は備えられ予定されていた出来事だった、預言が成就したのだという受けとめも出来ます。しかし十字架の上でイエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたという記事は、思いがけないことが起こったが故に「どうして予定変更なさったのですか」と言葉になって表に出て来た心の叫びではなかったのかとも思ってみるのです。そして神は、イエスを復活させました。これこそ最大の予定変更であったとは言えないでしょうか。

2014年7月13日(日)の主日礼拝 [説教要旨]

2014年7月13日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
説 教:「その人の値打ち」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録
13章13-25節(新約p.238)
招 詞:エステル記4章13-15節
讃美歌:27、2、409、407,91(1番)
交読詩編:33:4-11(p.34下段)

※礼拝、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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