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2014年7月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年7月27日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第8主日
説 教:「神の家での暮らし方」
牧師 望月修治
聖 書:テモテへの手紙Ⅰ
3章14-16節(新約p.386)
招 詞:列王記上10章1-3節
讃美歌:29、211、514、521,91(1番)
交読詩編:119:129-136(p.138下段)

※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
どなたでもお越しください。暑い日が続きますので、どうぞご自愛ください。

2014年7月13日(日)の説教概要 [説教要旨]

先週の説教要旨 2014年7月13日   使徒言行録13:13-25「その人の値打ち」      

◆ 使徒言行録の後半部、13章から26章にはパウロが3回にわたって行った伝道旅行のことが語られています。それはキリストの福音がユダヤという限られた地域を越えて、地中海世界、小アジアからヨーロッパ世界へと広がって行った宣教の記録ということになります。アンティオキアの教会は人口50万人の大都市という立地条件と多様な教会員がいるという特性を生かして、さまざまな地方への伝道活動を展開しました。その活動を中心的に担ったのがパウロでした。彼は、アンティオキアの教会を拠点として三回にわたって小アジア、地中海にそった地方を巡る伝道旅行を行いました。今日の箇所は、第1回目の伝道旅行でパウロがバルナバとともに、ピシディア州のアンティオキア、同じアンティオキアですが、教会があるシリアのアンティオキアから陸路をたどれば500キロ近い距離をへだてた位置にあるアンティオキアを訪れたときの出来事が記されています。

◆ そのアンティオキアで、パウロは安息日に、礼拝に出席するためユダヤ教の会堂に入りました。そこでおそらくパウロはユダヤ教の指導者と見なされたのでしょう。会堂長から「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話して下さい」と求められました。当時、ユダヤ教の会堂では、ユダヤ国内ではもちろんですが、ユダヤ本国以外の異邦の地であっても、律法の書と預言書が朗読されました。パウロが話すことを求められた「励ましの言葉」とは、聖書朗読に続く説教を意味しています。

◆ パウロは会堂長に促されて立ち上がり、語り始めました。これはパウロが伝道旅行を開始してはじめて語った説教です。彼の説教は、イスラエルの歴史をたどり直すことから始まりました。その昔、イスラエルの祖先が、モーセに率いられてエジプトを脱出し40年間の荒れ野の旅をしたこと、また紀元前900年代にサウルそしてダビデが王となり、特にダビデの時代に国の基礎が固まり、繁栄の時代を迎えたこと、そしてそのダビデの子孫から神が送った救い主がイエスであること、さらに人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えたバプテスマのヨハネが、イエスのことを「その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と語ったことをパウロはアンティオキアの人々に語りました。「履物のひもを解く」ことは、当時、奴隷がする仕事の中でも最も卑しい仕事だとされていました。ですから奴隷が同じユダヤ人である場合には、履物のひもを解かせることまでさせてはならないことになっていました。また弟子は、師匠のために奴隷がするのと同じことを行うように求められましたが、ただ履物のひもを解くことだけは免除されていました。「履物のひもを解く」ことはそれほど低く見なされていた仕事でした。しかしバプテスマのヨハネは、自分と救い主であるイエスとの相違は、この履物のひもを解く値打ちもないほどに大きいのだと語りました。そのことを説教の中で語るということは、パウロもまた同様の認識をイエスに対してもっていたということです。

◆ ではいったいイエスの何がパウロにこのように語らせるのでしょうか。使徒言行録を書いたルカは、同じく彼が書いた福音書の中に、「善いサマリア人」の譬え話を書いています。これはある律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と問うたことに対して、イエスが答えた譬え話、よく知られた譬え話です。イエスが答えたのはある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中の話でした。その人が追いはぎに襲われて身ぐるみは奪われ、半殺しにされてしまいます。そのとき、彼を助けたのは一人のサマリア人であったという話です。サマリア人はその人を見て憐れに思いました。「憐れに思う」とは原語のギリシア語で「はらわたがよじれる」という意味です。自分のはらわたがよじれるほど何かに突き動かされたというような体験を表す時に使う言葉です。倒れた人を見た時、サマリア人はその人に近づき、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、ろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。「はらわたがよじれる」と表現されたことが彼に起こることで、そこまでの行動を生み出したということです。

◆ 私たちはこのサマリア人を半死半生の人を献身的に助けた特別な人のようにイメージしてはいないでしょうか。少しちがうのではないかと思うのです。このサマリア人も仕事があり、生活があり、行くべき所にいかなければなりません。ではこの人は、自分のするべき仕事はこなしながら、しかしこの日のように倒れている人を見たら、その人の傍に近寄って介抱することを常とする人だったのでしょうか。毎日はたいへんだけれど、でもそのような生き方をいつもしましょうという勧めをイエスはこの譬え話で語りたかったのでしょうか。

◆ イエスはこの譬え話を「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いかけに対する答えとして語りました。だとするとこのサマリア人と「永遠の命」「本来的な命」を私たちが生きていくこととどこで結びつくのでしょうか。このサマリア人が、このようなで出来事があったがゆえに、貧しい人たちや困難を抱えている人たちを助ける人となって歩んで行ったというのならば「永遠の命」に生きることになるのかもしれません。しかし、イエスはそのような話をしているのではないのです。

◆ このサマリア人が「永遠の命」に招かれていくということは、またどこかの道ばたでひっくり返っている半死半生の人がいたら、すぐにそこに行って助けるということを常にやり続けるようになったから、本来的な生き方が出来るということではないのです。このサマリア人の人生の中でこのようなことは一度きりしかおこらなかったかもしれません。しかし、ただ一度起きたその時に彼は、はらわたが自分の意志を超えてよじれることを体験したのです。大切なのは、はらわたがよじれるという体験、自分を突き動かす働きが自分の中にやってきた、ということを忘れないことにあるのではないか。自分の計画や予定を超えて、自分が押し出されて行く働き、力に出会ったこと、誰がそのような力と促しを与えてくれたのかを忘れないで生きることが大切なのだと思います。
 この譬え話の最後にイエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とたずねています。これは誰がその人の近くに行ったのかということです。そして彼がそのような行動を起こしたのは、このサマリア人が近づく前に、神はすでにその人に触れておられて、その人を助けるために、サマリア人のはらわたをよじり隣人となる道へと彼を押し出したからだとイエスはこの譬え話で語ろうとしたのではないか。

◆ 神はそのように働くのだということを受けとめて生きること、それが「永遠の命」「本来的な命」を生きることなのです。自分の主体性や意志を超えて何者かによって突き動かされた。そのことを忘れないで生きることが人の生き方を変えるのです。パウロもまたダマスコに向かっていた途上で、サマリア人のようにはらわたが自分の意志を超えてよじれることを体験したのだと思います。そしてイスラエルの歴史を最初の説教で語ったのも、はらわたがよじれるという体験をした人たちが押し出されるように歩んだ出来事がそこに刻み込まれていたからではないのか。今自分を使徒としての働きに押し出しているのは誰なのか、それをパウロはまず語ろうとしたのだと思うのです。

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