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2014年6月1日の説教概要 [説教要旨]

説教要旨  復活節第7主日  2014年6月1日                   
ヨハネによる福音書17:1-13   「祈りを天に託して」

◆ 17章にはイエスの告別の祈りが記されています。1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあります。「天を仰ぐ」「まなざしを天に向ける」とは神の働きを待つ、あるいは神の働きに委ねていく姿を表しています。神の働きを待つ、そのイエスの姿勢は「父よ、時が来ました」という言葉でさらに明確に表されています。イエスはこれまでしばしば「わたしの時はまだ来ていない」と語ってきました。2:4カナの婚礼の席で、7:6弟子たちがイエスに自らを公にあらわされてはいかがですかと尋ねたときに、7:30や8:20では人々がイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである、と記されています。イエスが語る「時」とは人が決める「時」のことではありません。神が定め、神が満たしていく「時」という意味です。これまで周りの人々にとって「今こそその時だ」と思われるような時でも、イエスは「わたしの時はまだ来ていない」と語ってきました。今挙げた聖書の箇所はいずれもそうです。

◆ 人は自分の都合に合わせて時を定めます。起きる時間、食事の時間、待ち合わせの時間、それらは人が自分のあるいは自分たちの都合に合わせて定めていく時です。しかしイエスが「時がきました」と語る「時」は神によって満たされる特別な時、決定的な時を指しています。私たちがはじめて教会に来る、聖書の言葉が心に響いてくる、そうした信仰生活の節目は私たちが自分で計画を立てて自分で定めて刻んできたものではなかったはずです。思いがけなく私たちの人生に訪れたときであり、気づいたらそこに押し出されていた、歩み出していたのではなかったでしょうか。

◆ 「時が来ました」・・イエスにとってこの「時」とは十字架の時が来たということです。弟子たちにとってそれはイエスとの別離の時がきたということです。言い換えれば地上において、大地にその足跡を刻みながら歩むイエスに弟子たちが直接触れ、確かめることのできる時は今終わろうとしている。これから先は、見ないで信じることが弟子たちに求められていく、そういう時が始まるということです。地上での別離という決定的な節目の時にイエスが行ったことは、キリスト者にとって大変重要なことなのだということを示します。

◆ 一つは「天を仰ぐ」ということです。これは神の働きを待つ、神の働きに委ねることです。人間は生きている以上、誰しも何らかの変化を経験しながら生涯を送っていきます。キリスト者というのは、ある意味で、意識的にイエス・キリストの人生、あるいはイエス・キリストの生涯を通して示された神の働き、力を自分の人生の正面に据えて、イエス・キリストによって自分自身を「変えていこう/変えていただこう」と願いつつ生きる者のことなのです。私たちの人生の過去のある時点で出会い、その出会いの中で示されたイエス・キリストの福音を、また神の恵みを与えられている自分を、今の時も、またさらに今から後の日々においても、同じく自分の正面に据えて生きていこうと願うこと、それがキリスト者なのだということを「天を仰ぐ」という姿は示すのです。

◆ もう一つは祈るということです。使徒言行録2:42に、初期教会の人たちは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。初期の教会の人たちは、洗礼を受けたからといって、それが必ずしも自分たちが自覚的なキリスト者として一生を送るための保証にはならないことを知っていました。だからこそ、パウロも、福音書記者たちも、教会につながる人たちに対して、信仰に堅く立ち続けること、礼拝を守りつづけること、互いに励まし合い支え合ってキリスト者として歩み続けることの大切さを説いたのであり、熱心に文書を書き表し、手紙を書き送り、そして祈り続けたのです。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」この四つの行為はいずれもイエス・キリストに由来するものであり、初期教会の人たちはこの四つの行為に対して「これだけは譲れない」というこだわりを持っていたのです。使徒の教えというのは、イエスが示し、弟子たち=使徒たちが受けとめ伝えていった教え、すなわち福音のことであり、相互の交わりとは、自発的行為として持ち物を共有する交わりのことであり、パンを裂くとはイエスの十字架の出来事を思い起こすパン裂きであり、祈ることとは他者を覚える祈り、執り成しの祈りのことです。そして大切なのはこれら四つのことがらの底に脈々と流れているものは「誰が生き残るか」という「排除の理論」とは正反対に位置する考え方、「みんなで生き残るにはどうしたらよいか」という「共存の理論」だということです。

◆ 教会はこの四つの行為にこだわる仲間たちの集まりなのです。これらのことにこだわることによって、あるいは大切にすることによって、私たちは一つとなること、一つの教会形成をしていくことを目指して一緒に歩むのです。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」この四つが初期教会を形作り、初期教会の信徒たちの信仰を支えたのです。

◆ この中で今日の箇所に記されているのは祈りです。祈ることは他の三つにはない特徴を実はもっています。祈ることは一人でも出来るということです。初期の教会の信徒たちは共に集まって祈りました。しかしまた分かれている時、散らされている時には一人でも祈ることは出来ました。「使徒の教え」を学び合うこと、互いに交わりを持つこと、「パンを裂き」分かち合うことは、原則的には一人では出来ません。しかし「祈ること」は一人で行うこともできます。祈ることは自分の家でも出来れば、病院のベッドの上でも出来ます。パウロは牢獄の中で祈っています。牢獄の中では「教え」や「交わり」や「パン裂き」を分かち合うことはできない状態でした。しかしそのような時でも祈ることはできました。だからパウロは祈りました。獄中のパウロに残されたキリスト者としての最後の「こだわり」は祈ることでした。祈りはキリスト者に残された最後の行為です。しかしまた、祈りは私たちが最初になすべき行為でもあります。ある人が(オットー・ハレスビー「祈りの世界」)こう記しています。「祈りと無力さとは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。」私たちはなかなか自分が無力であることを認めようとはしません。口先ではそう言ったとしても、結局、どこかで自分に依り頼もうとしています。だからこそ私たちはなかなか真剣に祈ることができないということが起こるのです。祈りは私たちが神と交わる最も基本的な営みの一つであると同時に、神を中心とする私たちの交わりを表現する営みでもあります。自分たちの思いや自分たちの力をベースにして生きるのではなくて、神の思いに託しつつ生きることを互いに大切にして形作っていく交わりであることを、形として表していくのが祈りです。神の働きを大切に受けとめ自分たちは生きていこうと願っているのだということを表現するのが祈りです。それこそが初代教会以来、キリスト者がこだわり続けてきた営みでもあるのです。祈ることを通して神と出会い、祈ることを通して隣人に出会う、そのような祈りを大切にする教会を、信仰者の共同体を形作っていきたいと思います。

2014年6月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年6月15日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「さあ、ついてきなさい」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
4章18-22節(新約p.5)
招 詞:申命記6章4-7節
讃美歌:27、91(1番)
    こども讃美歌19、118、93、24-2

※次週の礼拝は、子どもと大人の合同礼拝です。同志社女子栄光館ファウラーチャペルにて行われます。

※子どもの教会に来てくっださっているみなさんへ
次週は、子どもの教会は10時半からですので時間を間違えないようにお越しください。

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