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2014年6月15日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨  聖霊降臨節第1主日 2014年6月8日                  
使徒言行録2:1-11   「故郷の言葉を聞いた日」

◆ 自分が歩んできた人生を振り返ってみたとき、心を動かす促しを感じて新しく踏み出したと語れる時があると思います。ただしその踏み出しがもたらしたものは、必ずしも成功と呼べるものだけではなかったかもしれません。失敗もあり、痛みやつらさもあり、時に悔いを覚えることもあったと思います。けれどもそのとき踏み出していなければ分からなかったであろうたくさんの事がありました。促しにこたえて歩み出したことによってはじめて綴ることの出来たそれぞれの物語があります。大事なことは、うまく事が運んだことだけが私の人生を意味あるものにするのではないということに気づける事です。つまずいたり、失敗したからこそ、大事なものが深く掘り起こされて私の人生を育むものとなるのです。人は「良き結果」のみを数えて「神さまのおかげ」と言い、「神さまの恵みだ」と言います。そうであるならば逆に、いわゆる悪いことが起こっている時は、神との関わりが全くない時だというのでしょうか。神はときどき顔を出して、私たちの人生にたまにおみやげを置いていってくれる、そういう方なのでしょうか。

◆ 福音書記者のマタイはイエスの誕生物語の中で次のように記しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。いつでもどこでも共にいる、それがインマヌエルということです。神はいつもイエスと共にある。我々と共にある。ではインマヌエルと呼ばれたイエス、「神がいつも共にいる」イエスの生涯は楽しいことだけ、成功したことだけであったのかといえば、そうではなかったことはよくご存知の通りです。苦しみは人の心を縮こまらせます。しかしその中にも神は共にあって働かれるのです。聖書はこの働きを「聖霊」と呼びます。教会の歴史はこの神の働きによって始まりました。使徒言行録に記されたペンテコステの出来事はそのことを綴った物語です。

◆ ペンテコステは、元々は過越の祭りから50日目に行われた、小麦の収穫のはじまりを告げる五旬祭のことです。イエスが十字架で処刑された年の五旬祭の時に、イエスの弟子であった人々に不思議な出来事が起こりました。それが使徒言行録に記されたペンテコステの物語です。イエスの十字架の出来事以来、弟子たちは人目を避けるように部屋の中に閉じこもっていたようです。その彼らが五旬祭の時を境にして、人前に姿を現し、十字架に掛けられたイエスこそ救い主であると力強く語りだしたというのです。しかもそれを聞いていた人々の心に深く届き、納得し共感を覚える言葉であったというのです。6〜7節にその時の人々の反応が語られています。「人々はあっけにとられてしまった」とあり、また「人々は驚き怪しんだ」とも記されています。この驚きはただ単に、弟子たちが人前に姿を現して臆せず堂々と語りだした、それも十字架に掛けられたあのイエスこそ救い主だと語りだしたからというのではなく、いろんな国の言葉で話し出したからだというのです。弟子たちの周りに集まってきた人々は、弟子たちの語る言葉を聞いて「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。今話しているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。他国の言葉など知っているはずがないのに」と驚き、怪しみ、不思議に思ったと語られています。人々の驚きは当然のことだと思います。弟子たちが語った言葉はユダヤの言葉に加えて、あと一つか二つといったレベルではなかったからです。9節以下に記されているようにいろいろな地方や国々から来た人たちがいて、その人達の国の言葉で弟子たちが「神の偉大な業を語った」(11節)と言うのです。そしてその時に人々が受けた衝撃の大きさをもう1度確認するかのように、12節で、”人々はみな驚き、とまどい、「いったいこれはどういうことなのか」と互いに言った”と語られています。中には、この事態の成り行きを受け止めきれずに「あの人たちは、新しいブドウ酒に酔っているのだ」と苦し紛れに言う者もいたとあります。驚き、怪しみ、戸惑う、それがペンテコステの出来事に出会った人の反応であり、偽りのない気持ちでした。

◆ 聖霊が働くとはどういうことなのか。ルカはそのことを2つの枠組みによって示しています。ひとつは場所です。ペンテコステの出来事が起こったのはエルサレムでした。1:4に復活のイエスが弟子たちに現れ「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と語ったとあります。ルカはエルサレムという場所をペンテコステの舞台として印象づけています。エルサレムはユダヤの都です。教会が誕生するその始まりとなったペンテコステの出来事はやはり、都であるエルサレムだという意味ではありません。ユダヤの人々にとって都エルサレムは一度入ってみたいと憧れる場所です。ガリラヤ育ちの弟子たちも同様の思いをもっていたはずです。しかしイエスの死後、弟子たちにとってエルサレムはまったく違った意味を持つことになりました。エルサレムの町はイエスが捕らえられ、死刑の判決を受け、処刑された所です。だから弟子たちにとっては、とてもつらい場所です。この場所は忌まわしい所、出来れば1日も早く立ち去りたい所です。さらには、弟子たちがイエスを裏切り、見捨てて、逃げ去った場所でもあります。弱さと醜さと不信仰をさらけ出してしまった場所、それが弟子たちにとってのエルサレムです。しかしこのエルサレムから離れるなと弟子たちはイエスから言われました。人間の弱さ、醜さ、情けなさ、不信仰があらわになって、打ちひしがれるほかなくなった時にも、いやそういうときにこそ、神は「わたしは共にいる」ことを私たちに示し、新しい生き方へと押し出して下さるのだとルカは言いたいのです。それが、聖霊が働くということなのだというのです。

◆ もうひとつは故郷の言葉です。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と4節に記されていますが、そこにいた人たちは、弟子たちの語る言葉をそれぞれの故郷の言葉として聞いたというのです。故郷の言葉とはその人が生まれ育ち、生きてきた命の歩みを象徴しています。人は飾っているときには借りものの言葉で語ります。しかし命を削って何かを伝えようとするときには、暮らしの言葉つまり故郷の言葉で、自分がいろんな思いを積み重ねながら生きてきたその故郷の言葉で語るのではないでしょうか。飾ることなど吹き飛んで、自分が生きてきた暮らしの中でいつも語ってきた故郷の言葉で人は自分の思いを相手に伝えようとするのではないでしょうか。だからこそ弟子たちの言葉はそこにいた人たちに、それぞれ自分たちの故郷の言葉で彼らはイエスのことを、あの十字架のイエスのことを語っているとそう受けとめさせていったのです。

◆ 言葉が伝わってくるとき、自分の心に何かその相手から動くものが伝わってくる時、それはその人が命を削ってこの私に語りかけていてくれるからなのだと気づかされます。ペンテコステの物語はそのことに気付かされ、心を満たされた人たちが刻みはじめた信仰の物語、教会のはじまりの物語なのです。私たちは、神が命を削って下さることによって生かされている、そのことをこのペンテコステの出来事の中に覚えたいと思います。

2014年6月22日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年6月22日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第3主日
説 教:「言葉が溢れる」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録
4章13-31節(新約p.219)
招 詞:マルコによる福音書1章29-30節
讃美歌:28、127、405、402、91(1番)
交読詩編:69:17-22(p.74上段)

※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
どなたでもお越しください。

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