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2014年5月11日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年5月11日(日)午前10時30分
復活節第4主日
説 教:「今しばらく共にいる」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書13章31-35節
(新約p.195)
招 詞:ヨハネの手紙Ⅰ 4章13-16節
讃美歌:24、16、521、542、91(1番)
交読詩編:34;1-8(p.35下段)

※次週の礼拝は、静和館4階ホールにて行われます。場所がいつもと異なりますのでお気を付けください。

2014年5月4日の説教概要 [説教要旨]

復活節第3主日礼拝  2014.5.4
説教:「わたしが来た理由」 望月修治
聖書:ヨハネによる福音書10章7~18節
◆ フランスの思想家ルソーが次のように述べています。「人は子どもの状態を憐れむ。人間がはじめ子どもでなかったなら、人類はとうの昔に滅びてしまったにちがいない、ということを知らないのだ」。ルソーがここで「子ども」という表現で語ろうとするのは、完成されていない、理想的ではない、迷う存在としての人間ということです。人間は迷う者を困った存在、大人になり切れていない存在という言い方で、嘆いたり、憐れんだりもします。しかし、もし人が完成された人格者ばかりであったとしたら、人類はとうの昔に滅んでしまったはずだとルソーは語ります。完成されていないものの価値が見落とされている、迷うことの大切さが忘れられている、迷うことへの優しさが失われているということです。

◆ 迷ったり、分からないことに出会ったり、失敗したりすることが、実は大事なのです。分からないこととしっかり向き合って、どれだけそのことを大切にしているでしょうか。人間はゆっくりと成長して行きます。そのゆっくりとした人生で何をしているのかと言えば、自分を位置づけなおし、選びなおしているのです。自分を自分で受けとめられないでいるときに、そんな自分がどこかで受け入れられていることに気づくとき、自分自身を位置づけなおすということが起こります。その場合、自分の立ち位置を見出し納得するために否定するという経過もたどります。いろいろ迷って、そして自分は自分でいいのだと思う時が訪れます。それは深いところで自分という存在を支え、赦し、向き合ってくれる誰かに出会ったとき、人は自分を位置づけなおすことができるのだと思います。わたしという存在をわたしよりも前に選び出してくれている神の存在によって、自分と向き合いなおすということが始まります。

◆ 「わたしは良い羊飼いである」と、イエスは自らをそう呼びました。そして良い羊飼いというのは、羊のために命を捨てるのだとも語っています。良い羊飼いは羊のことをいつも考え、そして羊のために行動する。自らが傷を負い、あるいは命を失うことがあっても、羊を守ることを放棄しないのだというのです。

◆ 羊飼いは熟練した石投げの技術をもっており、自分の羊が群れから離れそうになる時には、その鼻の先に石を投げて羊を群れに引き戻しました。私たちもまた群れから、交わりから、つながりから離れ出てしまいそうになることがあるかもしれません。自分の能力を自負し過ぎる時、謙虚さを失うとき、欲望をかなえることに熱中する時、自己主張に力を注ぐとき、心のバランスを失いそうになるとき、・・・そんなふうに私たちの人生の歩みには、さまざまな危険がつきまとっています。そんなとき、イエスは羊飼いの石投げの要領で、私たちの目の前に言葉を投げかけるのです。

◆ しかし羊飼いはだれでも熟練した石投げの技術を持っていました。その中で、良い羊飼いとイエスが自らのことを特別に表現する理由は何なのでしょうか。羊飼いであれば誰でも迷い出る羊の鼻先に石を投げて羊を群れに戻す技術は持っています。だとすれば、イエスが「良い羊飼い」と特別に呼ぶ理由はどこにあるのか。福音書記者のヨハネは「良い羊飼い」ということばで、具体的にどのようなイエスの働きを思い浮かべていたのでしょうかということを考えます。「良いこと」の中身は何なのか。その点が大事です。

◆ ヨハネ福音書の8章の物語はその「良いこと」の中身を語ってくれている物語です。姦通の現場で捕らえられた一人の女性の物語です。あるとき、律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえた女性をイエスの所につれてきた「さあどうする」と迫ったというのです。彼らは言います。「先生、この女は姦通している時、捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」と。これは、イエスを試し、訴える口実を得るためであったとヨハネは注釈を付けています。これに対してイエスは「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」と答えました。これを聞いていた者は年長者からはじめて一人また一人と立ち去ってしまい、イエスとこの女性だけが残りました。そこでイエスは言います。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。行きなさい、これからはもう罪を犯してはならない。」 

◆ この物語は今日の箇所で「良い羊飼い」とある、その「良きこと」の中身は何かを示してくれている物語です。姦通を行った女性を引き立ててきて「さあどうする」と迫った人々に対してイエスが語った言葉に、そしてひとり残った女にイエスが語った言葉の中に、良いこととはどういうことかが示されています。イエスがそこでしたことは何であったのか。イエスは人々を責め立てたのか、議論をして押し返したのか、こわもてに対応して相手を引き下がらせてしまったのか。そのいずれでもありません。イエスは人々の視線をそれぞれ自分に向けなおすこと、自分を振り返ってみるという方向に向けることを促しました。

◆ 良い羊飼いというのは、羊に対して「あなたは迷う存在だ」「あなたも失敗し、迷う存在だ」ということをきちんと伝える者であるということではないでしょうか。ただ無制限に赦すとか、何でもかんでも包み込むということではないと思います。いろいろなことがあるけれど、いっさいをチャラにして赦すということではないと思います。そういう赦し方は人を決して生かしません。どんなことをしても赦してくれるのさ、という受け止めは甘えです。良い羊飼いという時の「良いこと」とは、あなたは迷うのだ、ということを知らせる、気づかせ、受けとめさせる、という呼びかけ、行い、行動をとることを指しています。イエスが「あなたがたの中で罪を犯したことがない者がまず、この女に石を投げなさい」と言ったということは、あなたも迷う存在だということを知らせることに他ならなかったのだということです。

◆ 羊は迷います。良い羊飼いに導かれる羊は決して迷わないから、良い羊飼いだとイエスは言ったわけではないのです。わたしに従ってきたら、あなたがたは決して道を外さないし、迷うことなく生きて行けますよ、だからわたしに従ってきなさい、わたしはよい羊飼いなのだ、とイエスは言ったわけではありません。良い羊飼いに導かれる羊は迷わない、あるいは迷わなくなるということではなく、迷う存在であるということを知らされるのです。そしてそのことをちゃんと受けとめることによって、羊飼いに従って行くことの意味あるいは大切さを知って生きて行く者になるということです。

◆ あなたは迷う存在だということを知らせることは、お前はダメなやつだということではありません。しかし罪を、過ちを、道を外していることをうやむやにするということでもありません。きちっと本当のことに向き合わせる。そしてそこからその人を生かすという関わり方です。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか、誰もあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」そうイエスは語りかけたのです。

◆ 人は自分と出会いなおすために、あるいは自分を選びなおすために苦しく、荒れた時間を経なければならないことがあります。その転機をもたらす門をどのようにくぐるのか、決まった答えはありません。しかしそこにイエスは語りかけています。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」救いとは視点を転じて同じものを見ることです。同じ状況を違った視点から受け取りなおして生きて行くということ、それが「救い」ということです。自分と出会い直し、自分を選び直す視点は、「この人は全てを知っている。私が何をしたか、なぜこんなことをしてしまったか、知っている。知った上で『あなたを罪に定めない』と言ってくれる」この深い受容に招かれ包まれていることに気づくときに、自分を見つめる視点の転換、あるいは自分が置かれた状況を見つめ直して行く視点を与えられていくものだと思っています。

◆ 救いとは周りの状況が自分にとって都合のいいように変えられていくということではありません。わたしたちを取り囲んでいる状況はそんなに思うように変わってくれるものではありません。むしろかたくななまでに同じような表情を見せ続けることがしばしばです。その中で、聖書が「わたしを通って入る者は救われる」というイエスの言葉を聞くとすれば、それは状況が変わることではなく、状況を受けとめて行く違った視点をあなたに伝えるよ、あなたに示すよ、そこから今あなたのおかれている状況を見つめなおしてご覧なさい。そうしたら、今はあなたには見えていない、その先の道が見えてくるはずだ、歩むべき道が見えてくるはずだ。それが、聖書が語る神のわたしたちへの働き方なのだということです。


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