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2014年1月5日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第2主日礼拝  2014.1.5
説教:「少年時代」 望月修治
聖書:ルカによる福音書2章41~52節
◆ イエス・キリストの少年時代、それが今日の箇所に語られています。イエスが12歳になったときに両親はイエスを伴って過越祭に出るためにエルサレムに向かいました。そして無事に祭りが終わり帰路につき丸一日の旅をしたときに、両親は我が子がどこにもいないことに初めて気づくのです。不安が増し、驚きが広がります。翌朝、仲間と別れて両親は、我が子の所在を捜し、尋ねながらエルサレムに戻ります。46節によれば、「三日の後」とありますが、夜も寝ずに三日も捜しまわって、ようやく我が子を捜し当てます。捜し当てた時の我が子の様子はどうであったのか。「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話しを聞いたり質問したりして」いたというのです。

◆ ようやく我が子を見つけたマリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と、まことに母親らしくイエスを叱り、言い聞かせています。それに対してイエスは次のように答えました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この49節の言葉は、ルカによる福音書に記録されているイエスの最初の言葉なのですが、「父の家」と訳されている箇所は、原文では「仕事」あるいは「事柄」を意味する言葉が使われています。「わたしが自分の父の家にいる」というのは「わたしが父の仕事、父の働き、あるいは父の事柄の中にいる」ということになります。しかし両親にはこの時のイエスの言葉の意味が分からなかったというのです。

◆ 五味太郎さんが描いた「とうさん まいご」という絵本があります。「とうさん まいご」というタイトルはこの絵本の主題を表しています。父と子がデパートに買い物にいって、息子が迷子になってしまいます。しかし息子は自分が迷子になったとは思わず、「父さんが迷子になった」と思っています。興味深い視点です。今日の聖書もイエスが迷子になって両親が必死で探し出すという内容ですが、迷子になったのはイエスの方だったのでしょうか。もしかすると母マリアと父ヨセフが迷子になったということが暗示されてはいないでしょうか。

◆ 今日の箇所に登場するイエスはまだ少年です。「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とマリアは語っていますから、少年イエスをごく普通に我が子だと受けとめています。父と母からすれば、イエスは息子ですからそのように思うのは当然です。一方イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えています。「父の家」とは「父の内に、父のなかに」という意味です。つまりイエスにはもう1人、父と呼ぶ存在がいて、その父の内に自分が置かれているということを、お忘れになったのですかと言っているのです。ここでイエスがいう父とは神のことです。つまり、イエスは、自分がマリアとヨセフの息子であると同時に、父である神の子どもであることをお忘れになったのですかと問いかけたのです。

◆ イエスが、両親に注目させたかったのは、自分が父である神の内に置かれていることです。しかしそれは、イエスが母と子、父と子という関係性を否定したということではありません。親子の関係を大切にしていました。しかし、私達は、自分の役割に徹し過ぎるあまり、大切なことを見失いがちです。夫であること、妻であること、父であること、母であること、子であること、教師であること、学生であること、牧師であること、信徒であること。その役割を、責任を持って担っていくことは大事です。しかし、その役割や責任に対する使命感のなかで、私達はいつの間にかその力や地位に取り込まれて、思い上がってしまう。あるいはその役割や責任や使命感に縛られて、いつか息切れし、どこかで無理が出て、ストレスが溜まり、ひずみが生まれ、その結果人間関係がこじれてしまうことがあります。役割を担うことは大切です。しかしその役割以前にあなたも神に愛されている子なのだという視点が失われてはいないかと、この物語は問いかけるのです。

◆ 母マリアと父ヨセフは、母であり父であることに固執するあまり、「神の子」であることを見失っていた、その意味で迷子になっていたのだと思います。絵本「とうさんまいご」の最後に父と子のこんな会話が記されています。お父さん「もう これっきり あえないのかとおもったぞ」、息子「ぼくがみつけるから 大丈夫さ」。 イエスは、わたしたちが「神の子」であることを見失って迷子になっているときも、わたしたちを招き続けておられます。

2014年1月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年1月19日(日)午前10時30分
降誕節第4主日
説 教:「招き出された人々」  牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書1章14-20節(新約p.61)
招 詞:エレミヤ書1章6-8節
讃美歌:28、3、430、528、91(1番)
交読詩編:100(p.109上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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