SSブログ

2014年2月2日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第6主日礼拝  2014.2.2
説教:「何も話すな」 望月修治
聖書:マルコによる福音書1章40~45節

◆ ガリラヤ湖畔のある町で、重い皮膚病を患っている人が、イエスのもとを尋ねてきました。旧約聖書のレビ記13〜14章を読むと、重い皮膚病を患った人が実に苛酷な状況に置かれていったことが分かります。次のように記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です』と呼ばわらなければならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」重い皮膚病を患った人はこうして人々の交わりから排除されたのであり、それゆえこの病は人々から恐れられていました。

◆ イエスの時代、このような運命にあった人が多くいたはずです。人に近づくことを禁じられていたこの人が、あえてイエスの所に来てひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったというのです。この言葉が意味するものは何か。重い皮膚病を患うということは、一層の支えや助けが必要となるということです。しかし現実に起こるのは、逆です。汚れた者として社会から、町から追い出されました。

◆ イエスの前にいる人は、そのような現実に押しつぶされそうになってひざまずき「御心ならば」と言うのです。イエスの心が激しく動きます。「イエスが深く憐れんで」とあります。この「深く憐れんで」という言葉は、内蔵に痛みを覚えるという意味です。相手のことを思って内臓が痛むような痛みを心に覚える。「深く憐れんで」という言葉はそのように深く他者と向き合うことを表す言葉ですが、福音書では、この「深く憐れんで」と訳されている言葉を、一般の人々にあてはめては用いていません。イエスの心を表すときにだけ用いました。他者の痛みの傍らに内臓が痛むほどの思いをもって立ち、手を差し伸べることができるのはイエス以外にはありえないと人は思うからです。

◆ イエスは重い皮膚病の人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われるとたちまち重い皮膚病は去って、その人は清くなったとありますが、奇妙なのはその後です。43節です。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意したというのです。「深く憐れむ」という向き合い方をした人に、すぐにここから出ろと言う、その理由は何か。それを読み解くてがかりは、そのあとでイエスが語ったことにあります。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」まずイエスが求めたのは、他の誰にもこのことを言うなということです。

◆ しかし言わなければならない人がいる。それは祭司です。なぜなら最初に申し上げましたように、重い皮膚病を「汚れている」と判定するのは祭司の仕事であり、したがって「清められた」と判定するのも祭司の仕事だからです。祭司に体を見せて、清められたと証明してもらい、その後清めの儀式を行って、社会に復帰する。仲間のつながりの中に戻れとイエスは強く促したのです。重い皮膚病を患っていた自分に対してどれほどの仕打ちが社会から、仲間であった者たちからふりかかってきたか。追い出されて、人間扱いされない場所にいた、その場所から立ち去るのだとイエスは言ったのです。「厳しく注意して」というのは、人は本来置かれてはならない場所にこの人がいたから、そして出て行くことに戸惑いや恐れを抱いていたから、「戻りなさい」と強く背中を押したのです。そのために祭司の所に行って証明してもらうという、世の人々が納得する手順を踏むことをしなさいと注意したのです。祭司が証明するならば、病は癒されたと世間が納得する。だからその手だてを用いて人々に納得させる。何よりこの人がひとりの人間として生きることができる道を拓く。イエスの対応は現実的です。

◆ このイエスの対応が何を意味するのか。男は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願いを述べました。それに対してイエスは「よろしい」と答えています。男は「もしも御心ならば」と言った、その「もしも」をイエスは全部取り払うのです。「もしもできるならば」ではなく「そうする」と宣言する、それがこの場面で交わされた男とイエスのやりとりの言葉が示していることです。「あなたがそうしようとおっしゃるならば」と男が言うのに対して、「わたしはそうする」とイエスは語るのです。「もしも」と問いかける人の願いにイエスは必ず向き合い、聞き入り、答える。その人がひとりの人間として生きることができるために、傍らに寄り添い、神の働きを届けるのです。

2014年2月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年2月16日(日)午前10時30分
降誕節第8主日
説 教:「種の居場所」 牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書4章1-9節
(新約p.66)
招 詞:箴言2章1-5節
讃美歌:28、201、467、59、91(1番)
交読詩編:126(p.143下段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
同志社女子中学・高校のみなさんへ
いつもたくさんの方がいらしてくださり、ありがとうございます。
礼拝を受けるにあたり、礼拝の最後の後奏が終わるまでは退堂なさらないようご協力をお願い致します。
また、礼拝中は静かにお願い致します。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。