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2014年2月23日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第9主日礼拝  2014.2.23
説教:「四人の男」 望月修治
聖書:マルコによる福音書2章1~12節

◆ 福音書には、イエスが病気を患って苦しんでいる人を癒したという出来事が多く報告されています。イエスの時代の考え方で、病気は単なる肉体的な疾患であるよりも、宗教的な意味で何らかの罪をその人が犯した結果であると思われていたものがずいぶん多くありました。ですから病気になった人は肉体の苦しみだけではなく、精神的にも社会的にも負い目を負わされることになりました。そのような社会で、イエスが病気の人をいやしたということは、病気が直ったということより、病気は罪の結果だと見なし、ひとりの人間の存在そのものを否定するまで追い込んでいた病気の意味づけを否定し、その呪縛からあなたは解放されているし、自由なのだと宣言することを意味しています。

◆ 今日の箇所に記されている癒しの物語もそのような解放物語のひとつです。四人の男が、中風の病人を床のままかついでイエスのもとに連れてきました。彼らは明らかに中風の癒しを願ってこの病人を床のまま連れて来たのです。しかしイエスがいた家は同じように癒しを求めて来た人や、話を聞きたくて来た人たちで外までも人が溢れていました。普通ならば、待つのが当然です。

◆ それなのにこの四人の男たちは何を思ったのか、他人の家の屋上に上り、屋根をはがして病人をイエスの前につり下ろしてしまったのです。当時の家の屋根は、簡単に出来ていてはがしやすかったようなのですが、だからといって他人の家の屋根をはがして穴をあけるというのは無茶というものです。暴挙と言われても仕方ない行為です。

◆ 今日の物語は、ここからまことに興味深い展開を見せて行くのです。まず5節です。「イエスはその人たちの信仰を見て」とあります。その人たちとは他人の家の屋根に上がり、穴をあけて、中風の人をつり降ろした、その四人です。暴挙、非常識である彼らの行為に「信仰」をイエスは認めたというのです。中風の人の信仰ではなく、「四人の男たちの信仰を見て」と確かに書いてあります。癒しを必要としている本人のことはまったく斟酌されていないのです。イエスは屋根に穴をあけて病人をつり降ろした四人を見て、中風の人に対する彼らのやむにやまれぬ思いを良しとしたのです。マルコが語るこの信仰は、執り成しという言葉で表現すべきものだと思いました。本人ではなく、その人に関わる人の思いをイエスは受けとめ、そこに「信仰を見た」と宣言するのです。

◆ もうひとつ、今日の箇所には興味深いことがあります。「イエスはその人たちの信仰を見て」「子よ、あなたの罪は赦される」と語りました。おそらく誰もがこの時すぐに癒しが起こると思っていたはずです。ところが癒しではなく、「あなたの罪は赦された」とイエスが告げたので皆が驚いたはずです。私たちも癒しを期待するという点で、例外ではありません。
 それに対して、イエスの問いかけがくさびのように打ち込まれています。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。皆さんはどう思われるでしょうか。「あなたの罪は赦される」と言う方が易しいか、それとも「起きて、床を担いで歩け」と言う方が易しいか。これに対する直接の答えは記されていません。この問いかけにわたしたちはどう答えることができるのでしょうか。

◆ ひとつのヒントは10節の「権威」ということにあるのではないか。イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語っています。「権威を持っていることを知らせる」とは、この後起こった癒しの出来事がイエスの権威を証明するということなのでしょうか。もしそうなら、1章でイエスは大勢の人たちを癒したことが書かれていますから、今さらここでということになります。

◆ ではイエスが言う「権威」とはどういうことか。それは、すぐあと、中風の人に向かって「起きて、床を担いで家に帰りなさい」と言うと、その人は皆の前から床を担いで歩いて出て行ったという癒しの出来事を指すのではなくて、十字架の死というイエスの生涯の終わりの出来事において示された神の赦しの宣言を指しているのではないかと思いました。旧約聖書のイザヤ書43章25節に次のように記されています。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」ここに語られているのは、赦される側の悔い改めや手応えを待って、その人を赦す神ではなくて、神ご自身が、人を赦すことをご自分のためにすると宣言する方なのだということです。だからこそ「権威」と呼びうるものが神の働きの中に、イエスの働きの中にあるのだと思いました。不思議なことを行って、病気の人やからだの不自由を覚えている人を癒すから権威なのではなくて、「あなたの罪は赦される」ということを、その人がどうであれ、宣言し、あくまでその人が生き直す道をこそ提示するのが神であるということ、それが聖書に記されている「神の権威」の中身なのだと思います。

2014年3月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年3月9日(日)午前10時30分
復活前第6主日・受難節第1主日
説 教:「試みてはならない」  牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書1章12-15節
(新約p.61)
招 詞:エレミヤ書31章27-28節
讃美歌:27、208、441、511、91(1番)
交読詩編:91;1-13(p.101下段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。
3月5日(水)から受難節に入ります。

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