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2014年1月12日の説教概要 [説教要旨]

降誕節第3主日礼拝  2014.1.12
説教:「鳩のように」 望月修治
聖書:マルコによる福音書1章9~11節
◆ 芝居の台本をつくり、演出、舞台で上演する。その時に重要なのは、主役をどのように登場させるかです。福音書の主役はイエスです。マルコ福音書では洗礼を受ける人としてイエスを登場させています。イエスが洗礼者ヨハネから受けた洗礼は「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」だとマルコは記しています。加えてイエスがまず「洗礼を授ける」のではなく、「受ける」者の側にあったということを何の説明もしないまま書いています。イエスとヨハネの違い、それをヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」という表現で述べています。これは多少の違いがあるというレベルの話ではなく、「質的に」といってもよい程の違いがイエスとヨハネとの間にはあることを示しています。この違いが私たちにイメージさせるのは、ヨハネに代わって、あるいはヨハネと並んで洗礼を人々に授けるイエスでしょう。ところが福音書記者のマルコは、イエスがヨハネから洗礼受ける人たちの中に混じっていて、イエスもまたそのヨハネから洗礼を受けることから活動を始めたのだと書くのです。これは不思議な表現です。なぜなら罪の赦しを必要としない者が、罪の許しを得させる悔い改めの洗礼を受けたということになるからです。イエスと洗礼者ヨハネとの違いは、イエスがまず洗礼を受けることから活動を始めるという所にこそあったことになります。

◆ 人々と一緒にイエスが「罪の許しを得る悔い改めの」洗礼を受けたことは戸惑いを人々に与えました。マタイとルカはマルコ福音書を基礎資料としてそれぞれ別の福音書を書きましたが、イエスが洗礼を受けたということについてはマルコのようには書けませんでした。マタイ福音書では、イエスが洗礼者ヨハネの所に洗礼を受けに来られたとき、ヨハネの方が当惑してしまって、あなたはこのわたしから洗礼をお受けになる必要などありません。わたしはあなたに洗礼を授ける資格などないのですから、と言って、あわててイエスをとどめようとした。しかしイエスは、「今は止めないでほしい」と言って、洗礼を受けたと書いています。そういう経緯にでもしないとイエスの受洗の説明がつかないとマタイは考えたのです。一方ルカは、イエスが洗礼を受けたことは記していますが、洗礼者ヨハネから受けたということは全く省いてしまいました。イエスが洗礼を受けたことは事実なので、さすがに省くことは出来ない。けれど、洗礼者ヨハネを持ち出すと、説明がつかなくなるので、そちらの方を省いたのです。

◆ このときのイエスの洗礼の意味は、イエスが受けたもうひとつの洗礼と結びけたとき浮かび上がって来ます。もうひとつの洗礼とは何か。後にイエスは、弟子たちにこう問いかけています。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10:38)。ここで言われる「洗礼」は、明らかに十字架の死のことです。イエスの生涯は十字架の死という洗礼を受けることに向かうものでした。そのような生涯をなぜイエスは歩んだのか。パウロはその意味を次のように受けとめ、語りました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)「イエスの死にあずかる洗礼」とはいささか過激な表現です。キリスト者とそうでない人たちを分けることになる洗礼のポイントは「イエス・キリストの死にあずかるかどうか」という点にあるというのです。イエスの死にあずかるとは、人の生きる意味と人の死の意味、それを決めるのは神のみだということと向き合うことです。そのことを受け入れて生きる生き方を選びとって行くということです。洗礼を受けるということは、人生の主人公は神なのだということを受けとめて歩みますと公に告白することに他なりません。信仰は公にするということが不可欠なのです。それは神に対して具体的に応答することだからです。関係性は具体的に応答し合うことなしには生まれません。

◆ イエスの十字架の死を招いたのは、イエスの生き方そのものでした。イエスは当時、罪人と呼ばれていた人たちと交わり、その人たちの側に立って生きました。そのあり方が律法に反する、律法をないがしろにする、神を冒涜することだと非難されました。そしてユダヤの当局者たちは、民衆を煽動してイエスを十字架の死へと追いやりました。「イエス・キリストの死にあずかる」とは、このようなイエスの生き方がどこから生み出されたのかを見出し、自分の生き方につなげていくということです。

2014年1月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年1月26日(日)午前10時30分
降誕節第5主日
説 教:「驚きの理由」   牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書1章21-28節
(新約p.62)
招 詞:申命記30章11-12、14節
讃美歌:29、202、534、403、91(1番)
交読詩編:29(p.30上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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