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2013年4月7日の説教概要 [説教要旨]

説教:「番兵たちの報告」 望月修治
聖書:マタイによる福音書28章11~15節

◆ イエスが十字架で息絶えて、遺体は墓に納められました。しかし3日目の朝、その墓の中に遺体はなかったと聖書は伝えています。いったい何が起こったのか、誰も知りません。墓を見張っていたはずの番兵たちでさえ、事の顛末を知らなかったというのです。皆が共通して確認できたことは「墓が空であった」という事実です。ですからさまざまな憶測が生まれました。今日の箇所には、ユダヤの人々の間にデマが広がることになった顛末が語られています。
◆ 11節に「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵たちは都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」とあります。祭司長たちにとって番兵たちがもたらした情報は無視できない重要な意味を含んでいました。こともあろうに番兵たちの報告は、「人の子は三日目に復活する」と語っていたイエスの言葉が成就したと認めざるを得ないような出来事が起こっているということだったからです。祭司長たちは長老たちを集めて相談します。「三日の後に復活する」と語っていたイエスを十字架にかけた、そのことの正当性が突き崩されることを恐れた彼らは、協議の結果、墓が空だったのは、弟子たちが夜中にやってきて、番兵たちが寝ている間に死体を盗んで行ったとありもしないことをでっち上げました。そして兵士たちに多額の金を与えて言いくるめ、人々にそのデマを広めさせたというのです。つまり偽証をしろ、嘘の証言をしろと買収したのです。
◆ 私たちも都合の悪いことはなかったことにしてしまおうとします。つまり「臭いものには蓋」をするという処理の仕方をします。けれどもそのような対応は、状況を悪化させ、不本意な生き方へと向かわせてしまう結果を招きます。いのちの営みにとって一番大切なことは「本当のこと」に向き合うことです。ただしそれは覚悟がいります。本当のことに向き合うのは最初はとてもつらいものだからです。けれど本当のことは深い慰め、心の底からの安堵感をわたしたちのいのちの中に運んでくるのです。人が蓋をしたものを神は開きます。人が塞いでいるものを神は明るみに出すのです。蓋を開けることがいのちを深く育くむからです。塞いでいるものを明るみに出すことが、生きることのかけがえのなさに気づかせてくれるからです。
◆ なぜイエスは十字架にかけられ死んだのか。クリスチャンというのは、イエスの死の意味を次のように受けとめている者たちのことです。神は人間がお互いに「ふさわしい助け」として支えあい、一緒に生きる者となることを求めている。けれども人間は他者を利用したり、踏み台にしたり、憎んだり、悪口を言ったり、いじめたり、無視したり、言葉や力による暴力を振るって傷つけたりして生きている。そのような的を外れた生き方を罪と呼ぶのですが、本来ならその罪を神に償う責任は私たちにある。イエスの十字架の死は私たちが果たすべき償いを替わりに担うことであった。そう私たちは受けとめています。言い換えれば、イエスが十字架で死んだという出来事は、人間の本当の姿を明るみに出すできごとであったということです。人が蓋をしたものを神は開くというのはそういう意味です。そしてイエスが復活したというのは、蓋を開けるということで何が起きるのかを、その深い意味を示している出来事なのだと、私たちは受けとめているのです。
◆ マタイによる福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスのことばで締めくくられています。イエスが「共にいる」と語りかけたのは11人の弟子たちでした。彼らの中には疑う者もいたと記されています。11とは欠けを含んだ数字です。イエスを裏切ったイスカリオテのユダの存在を強烈に意識させる数字です。弟子たちの中に顕わになった欠けを埋めないままの弟子たちの群れをマタイは描きます。「疑う者もいた」という11人にイエスは近寄ったと18節に記されています。何のために・・・。それは宣教の働きを託すためです。神の働きに招かれた者として歩むことを促すためにイエスは近寄るのです。ではなぜ、そのような破れを持った者たちが神の宣教の働きを担えるのか、それは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からだとマタイは言うのです。破れを自覚したときにこそ、傍らにいる神を人は見いだすのです。欠けを抱きながら、なお用いられ、必要とされていく、そのような招きを身にしみて知るのです。そのとき人は生き方を変えます。
◆ マタイが属していた教会の人たちは、自分たちの乗る舟、すなわち教会が今にも沈みそうになっている迫害の現実に混乱し、大きく動揺していました。そのよう状況の中で、マタイはこの福音書を書き、「インマヌエル」神は我々と共にいてくださると告白する群れであり続けるべきことを示したのです。いやそのような状況だからこそ、インマヌエル、共にいるというとの大切さを受けとめることが出来る、味わい知ることができるとマタイは考えたのだと思います。

2013年4月21日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年4月21日(日)午前10時30分
復活節4主日
説 教:「信を問う」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
11章17~27節(新約p.189)
讃美歌:29、207、461、448、27
交読詩編:137(p.150下段)
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅰ
12章4~7節

※次週の礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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