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2013年3月31日の説教概要 [説教要旨]

復活節第1主日・イースター  2013.3.31
説教:「振り向く」 望月修治
聖書:ヨハネによる福音書20章1~18節

◆ 安息日が終わった週の初めの日の朝早く、イエスが葬られた墓に向かったマグダラのマリアが見たのはイエスの遺体すらない、空っぽの墓でした。7つの悪霊に取り付かれていたと記されているマリアは、尋常ではない苦しみや重荷を負って、疲れを極限にまで積み重ねながら生きている人でした。ですから彼女は助けを求めていました。幾重にも背負い込んでいた痛みや辛さが、ゆるみ、和らぎ、負いやすくなって行くのを彼女はおそらくイエスとの出会いの中で味わったのです。そのように信頼を寄せた人が亡くなったとしたら、人はその墓の前で「本当に自分の気持ちを分かってくれる人がいなくなってしまった」という寂しさを、墓に向かって語りかけ、涙を流すことがあるのではないでしょうか。「マリアは墓の外に立って泣いていた。」この短い一文にマリアの失意の深さが込められています。ヨハネが描き出す復活のイエスはこのマグダラのマリアに、最初に自分を顕わすのです。しかも彼女の背後から、復活のイエスは自らを顕わすのです。この描写はまことに印象的です。
◆ マグダラのマリアにとってイエスが死ぬということは希望が終わることでした。イエスは殺され、墓に葬られました。そのイエスとのつながりを保ち続ける手だてがもしあるとすれば、遺体を確かめ、引き取る以外にはないと、彼女は懸命に自分に言い聞かせたのではないか。けれども、その期待も外れてしまいました。墓は空だったからです。泣く以外に何が出来るでしょうか。立ちつくし、人目もはばからず彼女は泣き続けました。しかし実はその時すでに復活のイエス、すなわち、死を超えた新しい現実が彼女の背後に立って、彼女の発見を待っているのだとヨハネは告げます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と天の使いから問いかけられ「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」そう答えながら、ふと後ろを振り向いたマリアはそこに復活のイエスを見ます。しかしそれがイエスだとは分からず、墓地の管理をしている園丁だと思った。そこで、さらにイエスの遺体はどこにあるのかと尋ねます。するとイエスは再び背後から今度は「マリア」と彼女の名前を呼びました。マリアは再び振り返って「ラボニ(先生)」と答え、その人がイエスだとようやく分かったというのです。
◆ ヨハネはこの箇所で2回にわたってマリアを振り向かせて、彼女の背後から復活のイエスが呼びかけるという構図を印象づけます。ひょっとしたらマグダラのマリア自身がそう語ったのかもしれません。イエスが甦られたことを受けとめるために、私は2度も振り向かねばならなかったのですとマリア自身が証言したのではなかったのか。だとすればそれは、単なる視線の方向の問題ではありません。肉眼がどこを向いていたかということではありません。2回目に振り向いたとあるのはこころの目の問題、こころの眼差しは何をみるのか、そのことを語ったのだと思います。
◆ 泣き崩れたマリアの背後から復活のイエスが呼びかける、それは、人の死を超える新たな世界があることを示すものです。マリアは振り返ってすぐにそのことを了解したのかと言えば、そうではありません。彼女は確かに振り向いて復活のイエスを見たのですが、その新しさには気づかず生前のイエスに向き合うのと同じように「ラボニ」と呼びかけ、すがりつこうといたします。イエスは死んだのではなく生きている、マリアにはそう見えたのです。だから以前と同じように「ラボニ」(先生)と呼びかけ、もう2度と離れまいとしてすがりつこうとしたのです。しかしイエスはこう告げます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」・・・・このイエスの言葉は意味深長です。イエスは死んだのではなく生きていた、そういう受けとめをしてすがりつこうとすることは違うのだということです。イエスは死んだのです。死んでそして復活し、神のもとに招き上げられる、それが命の道なのです。神が司る命の歩み行く道なのです。そのことに気づくために、1度の振り返りではとても足らなかった。呼びかけられて2度あるいは3度振り返ってはじめて気づけたのだと、マグダラのマリアは語ったのです。
◆ 「マリア」と名を呼ばれて後ろを振り向く。聖書では「後ろ」は保護のしるしとして語られます。聖書の神は、人間に危機が訪れたとき、その苦しみや悲しみの物語を聞くために、背後からそっと「なぜ苦しんでいるのか」「なぜ、泣いているのか」と苦悩と涙の理由を問いかけ、「振り向いてご覧なさい、ここにわたしはいる」と語りかけるのです。

2013年4月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年4月14日(日)午前10時30分
復活節第3主日
説 教:「神が見せるしるし」
牧師 望月修治
聖 書:列王記上
17章8~16節(旧約p.561)
讃美歌:28、148、288、226、91(1番)
交読詩編:116;1-14(p.128下段)
招 詞:コロサイの信徒への手紙
3章1~3節

※礼拝は同志社女子大学今出川キャンパス栄光館ファウラーチャペルで行われますので、お間違えの無いようにお越しください。

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