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2020年4月26日 説教要旨 [説教要旨]

 ヨハネによる福音書21:1-14 「岸辺に立つ」 望月修治


◆ イエスの十字架の出来事の後、弟子たちは故郷のガリラヤに帰ってきて、ひっそりと暮らしていたようです。これからどうしていったらいいのか、彼らは確信をもって歩み出す道をまだ見出せてはいませんでした。イエスの逮捕、裁判、十字架そして復活、あまりにも衝撃的で、あまりにも強烈な出来事が次々と起こりました。彼らにはそれが何を意味するのか、じっくりと心の中で熟成させ、整理する時間が必要でした。故郷のカファルナウムで、弟子たちは、いやもはや「弟子」とは呼べないかも知れない男たちは、ティべリアス湖の岸辺に立って湖面を眺めて1日を過ごしていました。

◆ 「わたしは漁に行く」と唐突に、何かを決意したかのようにペトロが言います。それはある出来事が思い起こされたからではないか。ルカ福音書5章に記されている出来事です。その時、ペトロは一晩中、湖の沖合で舟を操り、網を打っていました。けれども魚は何も捕れず、失望感に沈みながら網を繕っていました。そこにイエスが姿を現し、ペトロに舟を沖に漕ぎ出して網を降ろしてみなさいと言いました。「お言葉ですからやってみましょう」、そう言って沖に漕ぎ出し網を降ろしたら大漁を経験します。このとき、ペトロは深い恐れを覚えて叫びました。「わたしは罪ある者です。わたしから離れて下さい。」それに対してイエスは、「わたしの弟子になりなさい。恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」のだと語りかけました。それは、ペトロがティベリアス湖を見るたびに忘れ難く思い起こしたに違いない体験です。この体験が、記憶の向こうから勢いをもって押し寄せてきて、ペトロを押し出し、漁に向かわせたのではないか。他の弟子たちもその声に弾かれるように舟に乗り込み、沖へ漕ぎ出しました。

◆ ガリラヤ湖の漁師たちは夜、漁に出ます。しかしこの晩はまったくの不漁だったようです。魚のいそうな場所をあちこち漕ぎ回って網を打ってみるのですが、一匹の魚も捕れませんでした。夜が明け始めます。疲れが一層重く肩にのしかかってくるようでした。突然、岸辺に声がしました。男が一人立っていてこちらに手を振って叫んでいます。「何か食べ物はないか。」 まだ夜も明けきらないというのに、もう「朝飯はないか」などという奴は誰だと、男たちは岸辺を見ました。岸辺からの距離は200ぺキスほど、約90メートルです。まだ朝の明けきらない薄靄のかかる中で、この距離では誰なのかはよく分かりません。その男がまた叫びます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」言葉が現実となります。舟から打った網に破れそうなほどの魚が勢いよく跳ねているのです。以前に同じティベリアス湖で体験したことと同じことが起こったのです。

◆ ヨハネ福音書は21章で、復活のイエスと弟子たちとの出会いは、これで3度目になりますが、念を押すように物語っています。興味深いのは、復活のイエスとの出会い方です。「何か食べ物はあるか」とイエスは声をかけます。しかし男たちは明けきらぬ朝靄の向こうにいる人が誰であるのか分かりません。この構図は聖書からの興味深いメッセージです。

◆ 復活のイエスは「見知らぬ人」として、つまり私たちには直接すぐには分からない隠された姿で登場するのです。これは思いがけないことです。イエスの復活なくしては弟子たちのその後の歩み、ひいてはキリスト教会そのものがあり得なかったのですから、もっと明確にそして大いに宣伝しても当然だと思います。しかし福音書の記者たちは「復活のイエスに出会ったけれど分からなかった」という書き方をして、「それ見たことか」と足を引っ張られそうなことをわざわざ書いているのです。それだけではなくさらに「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:30)とか「墓の番人、園丁だと思った」(ヨハネ20:15)というように、更に足を引っ張るような書き方さえしているのです。

◆ 福音書の記者たちはイエスの復活という出来事をなるべく分かりやすいように、理解しやすいように何とか工夫して書いているというのではなく、復活というのは全く意外なことなのだということを浮き彫りにし、むしろその点を強く押し出していると言えるのです。ということはこの意外性こそイエスの復活に関する聖書のメッセージの中心をなすものであるということではないでしょうか。福音書に書かれているイエスの復活についての記事をそのままに受け入れることは、それを無視するよりもはるかに困難であるように思いますし、どう受けとめたらよいのか途方にくれてしまうことでもあります。しかしそのように途方に暮れる状況こそ、復活のイエスと私たちとが出会う場なのです。イエスは、全く見知らぬ人として意外性に満ちて私たちの前に立つのです。

◆ この事は二つの可能性を私たちに提供します。一つは、私たちはイエスを完全に見過ごすことが出来るということです。「見知らぬ人」として立っているのですから、分かっているのに無視するということではありません。それとは気づかずに見過ごして生きることができるということです。

◆ もう一つは、私たちがある時、ある具体的な場所で起こった出会いにおいて、その出会った相手をイエスその人として見出すということです。そのようなイエスとの出会い方を、マタイは25:40でこう記しています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」・・・・・このことを少し視点を変えて申しますと、イエスを見出すこととそうでないこととは、全く違った二つの状況があって、一方はイエスがいる状況、もう一方は誰がどう見てもイエスがいない状況というのはなく、同じ一つの状況、同じ出会いの場なのだけれど、一方から見ると全くイエスとの出会いなど起こり得ないとしか思えない。けれど別の方向から見たとき、状況は同じなのだけれど実はそれがイエスと出会う場なのだということです。

◆ したがってイエスとの出会いの体験は何が何でも分からせてやると強制的にねじ込まれてくるのではないのです。見過ごすかそれとも見出すか、それは私たちの側にゆだねられているのです。復活など信じられないと拒否する、あるいは復活と言われても曖昧模糊としてつかみ所がないと途方に暮れる、そのような反応が示されることは多くあります。それならそのような場合には、もっと違った状況にその人を置いたら分かるようになりますよ、ということなのでしょうか。実はそうではないのです。拒否をする、あるいは途方に暮れてしまう、その場がイエスとの出会いの場なのだということです。人が疑問や文句や不満をいっぱい抱いて生きているその場所が、復活のイエスと私たちとの出会いの場なのだと聖書は示すのです。

◆ 宗教には「逆説」があります。この「逆説」が真実であると確信できる時に信仰は生まれます。パウロもそのことを体験した一人です。こう語っています。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:10)これは強がりではありません。「弱い時こそ強い」、この「逆説」の真実こそ信仰なのです。

◆ 絶体絶命と言いたくなる時があります。人間の努力や希望は尽きたかに見える時があります。しかし人間の絶望の先に神は立っておられるのです。わたしの、私たちの、人間の、悲しみに寄り添い、不安に寄り添い、苦しみに寄り添い、迷いに寄り添い、絶望に寄り添って神は歩まれるのです。だから「弱い時こそ強い」と語れるのです。人が強いからではなく神が強いからです。その神に人は弱さの中でこそ深く出会うのです。そしてその神に全てを委ねることを聖書は「希望」と呼ぶのです。

2020年5月3日説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.5.3 ヨハネによる福音書21:15-29 「人の愛・神の愛」  望月修治     

 「わたしを愛しているか」復活のイエスがペトロに尋ねました。これはヨハネによる福音書のラストメッセージです。イエスから「徹底的に愛する」という意味のアガパーンという言葉で「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とイエスから問われたペトロは、まことに苦く辛い思いでこの言葉を聞いたはずです。「あなたのために命も捨てます」と言い切った、徹底して愛しますと確かに言ったのに、我が身に火の粉が降りかかってくると、3度にわたってイエスの弟子などではないと言い逃れ、イエスを見捨てたからです。「わたしを徹底的に愛しているか」と問われて「友として愛しています」としか答えられなかった、それがペトロのこの時の現実でした。彼のその現実に寄り添うように、イエスはペトロが答えた愛、フィレインという言葉に託してもう1度「わたしを愛しているか」と問いました。福音書記者のヨハネはその場面を印象深く描いています。17節です。「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』 ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」 おそらく顔を上げては答えられなかったであろうペトロの姿が「悲しくなった」という言葉に写し出されています。自分が見捨て、裏切った相手であるイエスから、ペトロの生き方を丸ごと確認し、問い返されるかのごとく、「徹底してわたしを愛するか」と問いかけられたのですから、本当に悲しくなる。いたたまれない思いで、口ごもるようにフィレインという言葉で「愛しています」と答える、そのペトロの気持ちはよく分かります。できたらこの場から早く逃れたい、そんな思いに駆られる場面です。
 「あなたのためなら命も捨てます」、それは愛することの徹底した形を示しています。福音書記者のヨハネは15:13で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスに語らせる形で、愛とは何かというヨハネ自身の愛理解を語っています。「あなたのためなら命も捨てる」それ以上に大きな愛はない、ペトロはそのことを知っています。だから彼はイエスへの自分の思いの深さを語ろうとして「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)という最大級の表現を使ったのです。
けれども彼はそのようには生きることが出来ませんでした。これは私たちの生き様そのものです。いろいろな課題を抱えながら、そしていろいろな状況に身を置く中で、「わたしを愛しているか」「私に関わってくれるか」「私を助けてくれるか」という問いかけが発せられ、私たちのもとに聞こえてきます。その問いかけを受けて、必要とされていること、実現すべきことはよく分かっている。でも小さな声で「愛していることは分かっていただけますよね」と答えながら、いつの間にか支援や助けを求めて問いを発する人の前から身を引き、姿を隠してしまう自分を思うのです。
 イエスはその現実に歩み寄る人です。そしてあなたは赦されていると語る人です。
 「赦し」とは居丈高に相手に与えるものではないし、「かわいそうに」と憐れんで賦与するものでもなく、「歩み寄ること」です。丁度、聖書の中で、放蕩息子が戻ってくるのを見て、父親が走り寄っていったように。人を許すことも、人を愛することも、許された経験があって、愛される経験があってはじめて他者を許し、また他者を愛する、大切にすることができるようになるのです。そのような生き方を私が、私たちが少しでもできるようになるように、私たちのもとに歩み寄り、友だちのようにはなんとか愛します、と小さな声で答える者に、「そうか友だちのように愛してくれるのか」と語りかけるのが救い主のイエスなのです。
 徹底して愛するというイエスの関わり方は、まず私たちにも「徹底してわたしを愛するか」という問いかけることをもって始まることを今日の物語は示します。その問いは、今のわたしと向き合うことを求め、促します。2度にわたって「今のあなたはどうなのか」を問いかけます。求められて自分と向きって見るならば、そこに見えるのは破れであり、弱さであり、小ささです。どれだけ自分に欠けたところが多いか、身勝手な所があるか、自分の今が見えてきます。けれどそのことがあって、はじめて「徹底的にわたしを愛するか」という問いに少しでも答え、少しでも踏み込んで、その生き方を作り出してして行こうという歩みへと押し出されて行くのだということを、この3度に渡るイエスとペトロとの対話はわたしたちに語りかけてくれているのではないかと思いました。
 徹底的に愛するという生き方へとわたしたちが向かうのは、わたしたちがまず神から徹底的に愛される、神という他者から愛し抜かれるということ抜きには、起こりえないのです。そしてそのように徹底的にあなたのことを思う、愛するということは、わたしたちの立派さとか正しさとか間違いのなさがあって、そのことへの見返りや褒美としてわたしたちに届くのではなくて、破れから、傷から.弱さから、痛みを通して届き始めるものだからです。それが、聖書が語る「愛される」ということ、そして「愛する」ということの基本的な理解です。
今日の箇所のイエスとペトロとの対話はそのことを私たちに示すのです。「わたしを愛しているか」「主よ、わたしがあなたを愛しているのはあなたがよくご存知です。」アガペーで問われてフィレインでしか答えられない。ついに一度も「徹底的にあなたを愛しています」とは答えられないペトロにイエスは寄り添います。「徹底的にあなたのことを思っている」と一生懸命に伝えようとする。それが十字架を背負った救い主イエスなのだと語るのが今日の箇所の物語です。
「きみは愛されるために生まれた」という歌があります。韓国でよく歌われ、日本語にも訳されて歌われています。イ・チソンさんの体験を再現したドラマの主題歌として歌われました。イ・チソンさんは梨花女子大学校(イファヨジャデハッキョ)の幼児教育学科4年の時、ソウル市内で交通事故に遭います。日曜日、教会の礼拝を終えて大学の図書館で勉強し、夜、兄の運転する車で帰る途中のことです。飲酒運転の車が、信号待ちしていた彼女たちの車に追突し、ガソリンに引火し、チソンさんは全身に火傷を負う重体で病院に運び込まれました。顔も含め全身の55%に重度の火傷を負ってしまいました。筆舌に尽くせない痛みを伴う治療に彼女は歯を食いしばって耐えます。両手の親指を除く8本の指の先端も切断されました。7か月後退院しますが、彼女は顔の火傷を受け入れることが出来ませんでした。彼女の顔を見た子どもが「怪物」と呼んだのです。家族はそんな彼女に寄り添い続けます。教会の人たちも彼女に語りかけながら支え続けました。治療のため日本にも訪れました。鏡に映った自分に目を向けるように心がけました。鏡にうつる変わり果てた自分に手を振り、こう話しかけました。「こんにちは、イ・チソン」。すると鏡の中の新しいチソンも挨拶を返しました。「チソン。愛しているわ。」こうして少しずつ新しい自分を受け入れていきました。そして彼女はこう語ります。「わたしは堂々と胸をはります。わたしたちはVIP、特別な人なのです。あなたは愛されるために生まれた人なのです。」この彼女の体験を再現したドラマが制作され、その主題歌として歌われたのが「きみは愛されるために生まれた」です。
 きみは愛されるために生まれた/きみの生涯は愛で満ちている/永遠の神の愛はわれらの出会いの中で実を結ぶ/きみの存在が わたしにどれほど大きな喜びでしょう/きみは愛されるために生まれた/今もその愛受けている

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