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2020年5月3日説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.5.3 ヨハネによる福音書21:15-29 「人の愛・神の愛」  望月修治     

 「わたしを愛しているか」復活のイエスがペトロに尋ねました。これはヨハネによる福音書のラストメッセージです。イエスから「徹底的に愛する」という意味のアガパーンという言葉で「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とイエスから問われたペトロは、まことに苦く辛い思いでこの言葉を聞いたはずです。「あなたのために命も捨てます」と言い切った、徹底して愛しますと確かに言ったのに、我が身に火の粉が降りかかってくると、3度にわたってイエスの弟子などではないと言い逃れ、イエスを見捨てたからです。「わたしを徹底的に愛しているか」と問われて「友として愛しています」としか答えられなかった、それがペトロのこの時の現実でした。彼のその現実に寄り添うように、イエスはペトロが答えた愛、フィレインという言葉に託してもう1度「わたしを愛しているか」と問いました。福音書記者のヨハネはその場面を印象深く描いています。17節です。「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』 ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」 おそらく顔を上げては答えられなかったであろうペトロの姿が「悲しくなった」という言葉に写し出されています。自分が見捨て、裏切った相手であるイエスから、ペトロの生き方を丸ごと確認し、問い返されるかのごとく、「徹底してわたしを愛するか」と問いかけられたのですから、本当に悲しくなる。いたたまれない思いで、口ごもるようにフィレインという言葉で「愛しています」と答える、そのペトロの気持ちはよく分かります。できたらこの場から早く逃れたい、そんな思いに駆られる場面です。
 「あなたのためなら命も捨てます」、それは愛することの徹底した形を示しています。福音書記者のヨハネは15:13で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスに語らせる形で、愛とは何かというヨハネ自身の愛理解を語っています。「あなたのためなら命も捨てる」それ以上に大きな愛はない、ペトロはそのことを知っています。だから彼はイエスへの自分の思いの深さを語ろうとして「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)という最大級の表現を使ったのです。
けれども彼はそのようには生きることが出来ませんでした。これは私たちの生き様そのものです。いろいろな課題を抱えながら、そしていろいろな状況に身を置く中で、「わたしを愛しているか」「私に関わってくれるか」「私を助けてくれるか」という問いかけが発せられ、私たちのもとに聞こえてきます。その問いかけを受けて、必要とされていること、実現すべきことはよく分かっている。でも小さな声で「愛していることは分かっていただけますよね」と答えながら、いつの間にか支援や助けを求めて問いを発する人の前から身を引き、姿を隠してしまう自分を思うのです。
 イエスはその現実に歩み寄る人です。そしてあなたは赦されていると語る人です。
 「赦し」とは居丈高に相手に与えるものではないし、「かわいそうに」と憐れんで賦与するものでもなく、「歩み寄ること」です。丁度、聖書の中で、放蕩息子が戻ってくるのを見て、父親が走り寄っていったように。人を許すことも、人を愛することも、許された経験があって、愛される経験があってはじめて他者を許し、また他者を愛する、大切にすることができるようになるのです。そのような生き方を私が、私たちが少しでもできるようになるように、私たちのもとに歩み寄り、友だちのようにはなんとか愛します、と小さな声で答える者に、「そうか友だちのように愛してくれるのか」と語りかけるのが救い主のイエスなのです。
 徹底して愛するというイエスの関わり方は、まず私たちにも「徹底してわたしを愛するか」という問いかけることをもって始まることを今日の物語は示します。その問いは、今のわたしと向き合うことを求め、促します。2度にわたって「今のあなたはどうなのか」を問いかけます。求められて自分と向きって見るならば、そこに見えるのは破れであり、弱さであり、小ささです。どれだけ自分に欠けたところが多いか、身勝手な所があるか、自分の今が見えてきます。けれどそのことがあって、はじめて「徹底的にわたしを愛するか」という問いに少しでも答え、少しでも踏み込んで、その生き方を作り出してして行こうという歩みへと押し出されて行くのだということを、この3度に渡るイエスとペトロとの対話はわたしたちに語りかけてくれているのではないかと思いました。
 徹底的に愛するという生き方へとわたしたちが向かうのは、わたしたちがまず神から徹底的に愛される、神という他者から愛し抜かれるということ抜きには、起こりえないのです。そしてそのように徹底的にあなたのことを思う、愛するということは、わたしたちの立派さとか正しさとか間違いのなさがあって、そのことへの見返りや褒美としてわたしたちに届くのではなくて、破れから、傷から.弱さから、痛みを通して届き始めるものだからです。それが、聖書が語る「愛される」ということ、そして「愛する」ということの基本的な理解です。
今日の箇所のイエスとペトロとの対話はそのことを私たちに示すのです。「わたしを愛しているか」「主よ、わたしがあなたを愛しているのはあなたがよくご存知です。」アガペーで問われてフィレインでしか答えられない。ついに一度も「徹底的にあなたを愛しています」とは答えられないペトロにイエスは寄り添います。「徹底的にあなたのことを思っている」と一生懸命に伝えようとする。それが十字架を背負った救い主イエスなのだと語るのが今日の箇所の物語です。
「きみは愛されるために生まれた」という歌があります。韓国でよく歌われ、日本語にも訳されて歌われています。イ・チソンさんの体験を再現したドラマの主題歌として歌われました。イ・チソンさんは梨花女子大学校(イファヨジャデハッキョ)の幼児教育学科4年の時、ソウル市内で交通事故に遭います。日曜日、教会の礼拝を終えて大学の図書館で勉強し、夜、兄の運転する車で帰る途中のことです。飲酒運転の車が、信号待ちしていた彼女たちの車に追突し、ガソリンに引火し、チソンさんは全身に火傷を負う重体で病院に運び込まれました。顔も含め全身の55%に重度の火傷を負ってしまいました。筆舌に尽くせない痛みを伴う治療に彼女は歯を食いしばって耐えます。両手の親指を除く8本の指の先端も切断されました。7か月後退院しますが、彼女は顔の火傷を受け入れることが出来ませんでした。彼女の顔を見た子どもが「怪物」と呼んだのです。家族はそんな彼女に寄り添い続けます。教会の人たちも彼女に語りかけながら支え続けました。治療のため日本にも訪れました。鏡に映った自分に目を向けるように心がけました。鏡にうつる変わり果てた自分に手を振り、こう話しかけました。「こんにちは、イ・チソン」。すると鏡の中の新しいチソンも挨拶を返しました。「チソン。愛しているわ。」こうして少しずつ新しい自分を受け入れていきました。そして彼女はこう語ります。「わたしは堂々と胸をはります。わたしたちはVIP、特別な人なのです。あなたは愛されるために生まれた人なのです。」この彼女の体験を再現したドラマが制作され、その主題歌として歌われたのが「きみは愛されるために生まれた」です。
 きみは愛されるために生まれた/きみの生涯は愛で満ちている/永遠の神の愛はわれらの出会いの中で実を結ぶ/きみの存在が わたしにどれほど大きな喜びでしょう/きみは愛されるために生まれた/今もその愛受けている

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