SSブログ

2020年5月10日説教要旨 [説教要旨]

 ヨハネによる福音書15:18-27  「言葉の守り人」    望月修治     

◆ 聖書は人間の現実をどのように捉えているのか。旧約聖書のイザヤ書に次にように記されています。29:13-14です。「主は言われた。『この民は、口ではわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。』」少しかみくだいて申しますと、人間は神の思いを探し求めず、無意識のうちに自分の思いを神の思いだと思い込んでしまう。そのような人間に神は「驚くべき業」によって働きかけ、その過ちに気づかせようと決意するのだというのです。

◆ イザヤが語った「驚くべき業」、その究極の形が、今日の箇所24節で「だれも行ったことのない業」と語られているイエスの出来事です。イエスの死と復活は、人間に寄り添い、破れを持ったまま、弱さのまま歩むことのできる生き方を示すために神が行った「驚くべき業」なのだというのがヨハネ福音書の理解です。

◆ ヨハネ福音書には13章から16章の終わりまで、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った訣別の言葉という形をとって、イエスの教えが書き記されています。ヨハネ福音書に描かれるイエスは、この最後の夜に、すべてを注ぎ出すかのように語り続けます。イエスの地上での最後の時を背景にその言葉を記すのは、ヨハネの時代の教会も、もうあと一突きで倒されてしまうのではないかという強い危機感を覚えざるを得ない状況に直面していたからだと思います。

◆ ヨハネによる福音書が書かれたのは紀元100年に近い頃です。当時、キリスト教徒は同胞であるユダヤ教の人々から弾圧を受け、迫害されていました。その状況をヨハネは「会堂から追放する」という表現で語っています。この言葉を用いているのはヨハネによる福音書だけです。9:22にこう記されています。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた。」会堂から追い出されるということは、ユダヤ社会の中で生きていけなくなる、村八分にされるということを意味していました。

◆ キリスト教徒はなぜそのような目にあわなければならなくなったのか。その大きな理由は紀元66〜73年まで続いたユダヤ戦争です。イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下に置かれ、様々な圧政に苦しんでいました。このローマに対する抵抗運動がユダヤ戦争です。この戦いはキリスト教徒の評判を決定的に落とすことになりました。イエスの福音を受け入れてキリスト者として生きていた人たちは、誰もこの抵抗運動に参加しなかったのです。そのためユダヤの人々は激しく怒り反発を募らせました。ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人を滅ぼす側であったローマの人々の中にも、キリスト教徒というのは弱虫で、卑怯者で、自分の民族、自分の国のために戦うことも出来ないとののしる人もあったようです。

◆ 今私たちは新型コロナウイルス感染の深刻な影響を受けています。感染された方やそのご家族、懸命に治療にあたっておられる医師をはじめ医療従事者の皆さん、またそのご家族への感謝が語られる一方で、風評被害や、SNS上で匿名で自分の身は安全圏に身を置いた上での非難攻撃も、当事者の人たちの生活を直撃しています。命を守るために懸命に困難を耐え忍び、向き合い、立ち向かって下さる立場に置かれる人たちの疲れや不安や痛みへの想像力を私たちは問われています。ヨハネが福音書を書いた時代のキリスト教を取り巻いていたのも、激しく渦巻く風評の連鎖による弾圧であり、圧迫でした。

◆ 「会堂から追放する」と脅され命の危険さえ感じる中で、ヨハネが属していた教会の人々が選択を迫られたのは、イエスを主と告白する信仰に生きるのか、それとも会堂から追放されることを恐れてユダヤ教の枠の中に再び戻っていくのか、そのどちらを選ぶかということでした。曖昧な問いかけではありません。黒か白か、文字通り二者択一が求められています。ユダヤ教の枠という世に属するのか、「あなたがたを世から選び出した」というイエスに属するのか。イエスの語った言葉を守るのか守らないのか。イエスを憎むのか憎まないのか。どちらの側に立つのかです。

◆ そして大切なことは、24節です。「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。しかし今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」とイエスが語っていることです。イエスを憎んだとしても、迫害したとしても、その言葉を守らなかったとしても、もし「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら」、彼らに罪はなかったというのです。しかし「だれも行ったことのない業を彼らは見た」のです。

◆ その業とはイエスの死と復活を指しています。ではその十字架の出来事とは、もっと噛み砕いて、具体的に言うと私たちに何をもたらしたのか。それは今日の箇所のすぐ前、15節に語られています。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 この関係、神と人間とのこの関係のあり方が差し出されたのです。それまで、神と人間との関係を「友と呼ぶ」な
どということはあり得ませんでした。しかもそれは人間の側のそうありたいと言う願望ではありません。16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とあります。神が踏み込んでくださったのです。欠けをもち、破れをもち、身勝手に生きようとするこのわたしを、私たちを「友」と呼び歩み寄る、その繋がりに神の側が踏み込んだのです。

◆ もうひとつ大切なのは「あなたがた」とイエスが呼びかけている、その「あなたがた」にわたしは含まれている、「わたしがあなたがたを選んだ」と言われた時に「あなたがた」の一人がわたしなのだということです。そのことを知識として知っているということではなく、自分のための言葉だと体験し、心の中にストンと落ちる、深く納得することです。その時私たちの世界の見方は変わります。生きることへの思いは変わります。

◆ そのために、ではどうすればよいのか。それは聖書をどのように読むかにかかっています。聖書はひとつの宗教的な古典として私たちの前に置かれています。力ある、知恵のある言葉に満ちています。また聖書を学問の対象として研究する人たちがいて、さまざまな成果がわたしたちにもたらされます。そのような読み方はもちろん可能ですし、私たちの聖書の読み方を助けてくれます。

◆ けれどもさらに聖書を読むだけではなく、聖書の言葉に生きるという読み方があると思います。それは聖書を通して神が、わたし自身に向かって「あなた」と呼びかけているのだということに気がつき、わたしのために書かれた書物として読むという試みです。聖書で語られる「あなた」が「わたし」なのだと分かるとき、聖書の言葉が生きた言葉になります。その時、聖書は何千年も前の出来事を書いた古典ではなく、いま、ここで、私に語りかける言葉として読まれるようになるのです。そして私たちの生き方は必ず変わります。

2020年5月17日説教要旨 [説教要旨]

  ヨハネによる福音書16:25-33 「死の意味が変わる日」  望月修治    

◆ 私たちが深い慰めの言葉を聞きたくなったときに、立ち戻って味わい続けてきたイエスの言葉が記されています。今日の聖書箇所の最後33節です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

◆ ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代の教会に集っていた人々にとって、この言葉はどれほど深く心に届き、揺さぶったことであろうかと思います。当時のキリスト教会は、同じユダヤ人であるユダヤ教側から異端だとして激しく迫害され、それまでのように同じユダヤ教の会堂に集い、言葉を交わし、神を思う時を一緒に過ごすことがもはやできなくなっていました。紀元66〜73年まで続いたユダヤ戦争と呼ばれるローマ帝国との戦いに敗れたユダヤは、エルサレムの神殿も失いました。イスラエルの基盤であり続けた神殿を失ったユダヤ教は急速に保守化することで自分たちを守ろうとしました。保守化し、内側に向かい始めると、人間は頑なになり、異なったものを排除するようになります。それは現代も同じです。ユダヤ教の保守化は、キリスト教を異端とし、弾圧するという形で顕在化しました。その苦しさの中で、教会の人たちは文字通りイエス・キリストが見えなくなっていくという危機に立たされていきました。

◆ 教会の存亡の危機がひたひたと迫っている、それがヨハネ福音書に影を落としています。13章から16章の終わりまで4章にわたって、イエスが弟子たちとの最後の食事となった席で語ったという設定で、イエスの言葉が書き記されています。それは教会の危機をイエスの最後が迫っている時と重ね合わせ、イエスの歩みと業、語った言葉を深く受けとめ直すことが、今だからこそ求められていると考えたからです。

◆ 今日の箇所はその最後の箇所になります。その最初の25節で、イエスはこれまで話してきたことはたとえを用いたものであったと語っています。しかしヨハネ福音書でのイエスはそう多くのたとえを語ってはいません。10章の「良き羊飼い」の譬えと、15章の「まことのぶどうの木」が上げられる程度です。ですからここで「たとえを用いて」と語られているのは、これまでイエスが語ってきたことが譬えであったという意味ではありません。弟子たちはイエスの話の真意を理解できず、謎のように聞こえていたということを「たとえを用いて」と表現したのだと思います。

◆ その中心的なメッセージのひとつが16:16に記されている「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」という言葉だと思います。しかしこの言葉も弟子たちには謎のように聞こえたのではないでしょうか。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」とは言うまでもなく十字架の時をさしていますし、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」というのは復活したイエスに出会うということです。そのことをこれまではたとえを用いるように間接的に伝えてきたけれど、いよいよ十字架のときが迫ってきた今は、直接はっきりと伝えるとイエスは語ったというのです。

◆ 二つのことをイエスは語りました。一つは27節「父ご自身(つまり神)が、あなたがたを愛しておられる」ということ.もう一つは28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」ということです。「神があなたがたを愛している」という、それはどのように示されるというのでしょうか。地上におけるイエス・キリストの歩みは、十字架と復活の出来事を経て、エルサレム近郊で起こった昇天の出来事によって終わりを迎えました。イエスが天に上げられた日はイエスと弟子たちとの別れの日です。これまでイエスと共に歩み、教えを受け、さまざまな働きを目にしてきた弟子たち、十字架と復活の出来事を経験してきた弟子たちに、イエス・キリストは別れを告げます。この別れの出来事はいずれの福音書にも記されているのです。その記事を読んで気づかされることがありました。それは弟子たちとの別れのときにイエスが語ったのは別離の言葉ではないということです。「これでお別れ」「さようなら」ではないということです。使徒言行録1:8によれば、そのときイエスは次のように語りました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 マタイによる福音書でも、イエスの最後の言葉は別離を告げる言葉ではありません。弟子たちに向かって「すべての民」に対する宣教を行うように命じる言葉であり、また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という約束であったと伝えられています。

◆ イエスは別れを告げないのです。どんなときにも、最後の最後、昇天の時でも、イエスは「これで最後だ」「さようならだ」とは言いません。人生の日々を歩んでいく中で、わたしたちは何回「さようなら」を言わなければならないでしょうか。出会いがあれば、また必ず別れがあります。この世に生まれてきた以上、わたしたちはいつか必ずこの世に別れを告げ、愛する家族や友人、多くの人たちに「さようなら」を言わなければなりません。そのようなとき、「さようなら」を言わないイエス・キリストこそ、わたしたちを深く慰め、支えてくれる源なのです。

◆ もう一つイエスが語った言葉があります。32節「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時がくる。いや、既にきている。」これは十字架の出来事が起こったとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去ってしまうことをさしています。イエスはその相手がイエスを見捨てて逃げ去ってしまう者であっても、「さようなら」を言わないということです。私たちがどのような状況にいようとも、どんなに罪深くても、どんなに破れているときでも、その私たちに「さようなら」とは決して言わない、見捨てないということです。

◆ 問題を起こしてしまった時、誰にも知られないですませればそれでよいと思ってしまいます。でもそれは決して心を深く晴れやかなものにしてはくれません。隠し事にしておくことをやめようと決意して、誰かに打ち明けたときに、はじめてその痛みは苦しさではなくなっていくのです。本当のことを告白できたとき、つまり、つながりの中に自分の秘めていたもの、隠していたことを置くことができて、しかもそのつながりが切られることはないのだと知った時、あるいはそのように自分を受けとめてくれる人が与えられていることを知ったときに、私たちの苦しみや痛みは、はじめて深みをもった安らぎ、命を深く養い、包み込み、生きていてよかったと思える喜びによって癒されて行くのです。

◆ 今日の箇所の最後で、イエスのそのような言葉に出会うのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ここでイエスが「あなたがたは」と呼びかけているのは、イエスを見捨てて、イエスをひとりにしてしまう破れをもっている一人一人です。その一人一人に向かって、もっと違った自分になった時にはというのではなく、今のあなたに、そのままのあなたに「さようなら」とは決して言わないとイエスは約束したのだとヨハネは伝えたかったのです。だから「勇気を出しなさい」と語りかけるのです。そしてそのままで勇気が出せるのは、あなたの中に力が増すからではなく、「わたしが既に世に勝っている」からだと宣言するのです。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。