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2014年8月10日の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2014.8.10 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:12-26 「生きることの仕組み」

◆ パウロは、教会を人間の体に喩えました。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『私は目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」

◆ 当時のコリントの教会は、指導者の名前をそれぞれ掲げて「アポロにつく」とか「パウロにつく」とか「ケファにつく」などと言って分派争いをし、分裂と生活の乱れが広がっていました。パウロはそのようなコリントの教会を人間の体の仕組みに譬えて苦言を呈し、教会の再構築を訴えています。人間の作り出す組織を人体の構成をもって、そのありようを語るという方法は、パウロ独自のものではありませんが、コリントの街や教会の状況に触発されたことは確かです。13節に「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために」と語られているように、コリントの教会は民族や身分の差など多様な人たちで構成されていました。そこに起こっている分裂騒ぎをどう収めるか、パウロはそのことに心を砕いています。

◆ コリント教会の分裂騒ぎの原因は、神から与えられたはずのものを自分の力によって獲得したと思い違えてしまったことにあります。1:4-5に「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」とあります。しかし人はしばしばその豊かさを自分の実力、自分の能力、自分の知恵によって手にしていると思い込み、舞い上がります。神からの、あるいは他者を通して与えられた恵みの賜物は、人の心の中でしばしば自分の誇りに変わり、さらに人間のおごりへと変質します。コリントの教会の分裂騒ぎは、それぞれが神からあるいは様々なつながりを通して与えられた賜物を、自分のものこそ第一のものだと主張し合い、互いに譲れぬ誇りとなって、それが教会のつながりを対立へと変えていってしまったのです。

◆ どうすればよいのか。1:26でパウロは次のように記しています。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」召されたときの自分を思い起こせと語っています。そしてさらに、召されたときの自分を思い起こすとは、次の事実をわきまえ知ることだと述べています。1:27-29「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しいもの、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」 コリントの教会の人たちに向かって、あなたがたは確かに神に選ばれ、神に召し出されたのだけれど、それは知恵があったから、力があったから、地位があったからではない。むしろ逆なのだというのです。

◆ そのことを今日の箇所では、24-25節「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」と語られています。イエスの死後、十字架で死んだイエスをキリスト、救い主だと信ずる人々の集まりが生まれ、そしてそれは教会という形をとっていくことになったわけですが、その教会の仕組みはどうあるべきなのか、何を基盤とすべきなのか。それをパウロは27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と語っています。私の苦しみは、同時にキリストによって担われ、あがなわれていくものだということです。ですから、自分一人の苦しみや悩みとして抱え込むのではなく、キリストの前にさらけ出す。さらけ出すことによって、そして他の人もそれぞれの悩みや苦しみをキリストの前にさらけ出すことによって、はじめてお互いの苦しみや悩みが共にされていくのです。

◆ いまの社会は人に迷惑をかけずに生きることを「自立」だと評価します。けれども誤解してはならないのは「自立」とは「独立」のことではないということです。「独立」とは誰にも依存していない状態のことです。でも、人はだれ一人、ひとりでは生きられません。食材を準備してくれる人、看病をしてくれる人、いろんなことを教えてくれる人、手紙を届けてくれる人、電車を運転したり修理したりしてくれる人、数えきれない人たちが互いの暮らしと行動を支え合って生きています。ふだんは社会の仕組み(ケアのシステム)を使ってあまり人に頼らずに生きていられても、いざ病気とか事故とか被災などで、自分が人の支えなしでは生きられなくなったときに、他人との支え合いのネットワークをいつでも使える用意ができているということが「自立」の本当の意味なのです。

◆ 人には、そして人の集まりには、いろいろな困難や苦労があります。そのような時に、たがいの命を世話し合うという生き方は、以前私たち住んでいた町内や地域で当たり前のこととしてありました。けれども今、生きてゆくうえで欠かせないことの大半を、私たちは社会の公共的なサーヴィスに委託して暮らしています。お互いのいのち世話を、病院や学校、保育園、介護施設、外食産業、クリーニング店、警察署、消防署などにそっくり任せて生活しています。これは「福祉の充実」とか「安心・安全」と言われるのですが、裏を返せば、人が自活能力を一つ一つ失ってゆくことでもあると言えるのではないか。これらのサーヴィスが事故や交渉で止まったり、劣化したり、停滞したりしたとき、自分たちで解決策を提案したりあるいは行政やサーヴィス業から仕事を取り戻して自分たちでやりますと言うことができなくなっています。

◆ ある人が「人生には超えてはならない、克服してはならない苦労がある」と言っています。苦労を引き受けることの中にこそ、人として生きることの意味が埋もれているからだというのです。そしてその苦労は独りで背負いきれるほど小さなものではありません。聖書は生きることのポイントを、破れ、弱さに置きます。今日の箇所でも、「体の中でほかよりも弱く見える部分」「格好が悪いと思われる部分」「見苦しい部分」「見劣りのする部分」と、4段重ねで、これでもかというくらいに破れの部分が挙げられています。大切なことは、それらをなくしたり、少なくしたりすることではなく、組み合わせることです。パウロはそのことを人間のからだに譬えて語ったのです。

2014年8月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年8月24日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第12主日
説 教:「神の国からのたより」
牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書
10章13-16節(新約p.81)
招 詞:エフェソの信徒への手紙
5章29-32節
讃美歌:29、16、403、544、91(1番)
交読詩編:127(p.144上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館フラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。


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