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9月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年9月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第15主日
説 教:「その生き方を愛と呼ぶ」
牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅰ
12章27-13章13節(新約p.316)
招 詞:ホセア書11章8-9節
讃美歌:24、204、476、487、91(1番)
交読詩編:62(p.66上段)

※礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。季節の変わり目で体調を崩しやすくなっていますので、みなさまお体に気を付けてお過ごしください。

2014年8月31日の説教要旨 [説教要旨]

エフェソの信徒への手紙4:17-32 「生き方指南」          

◆ フランスの哲学者ジャン・ギットンが、考えることの大切さを説き、物事について考える訓練方法として三つの言葉を使ってごらんなさいと勧めています。第1は「これに対してある人は」です。第2は「なるほど」、第3は「しかし」・・・・この3つの言葉です。まず自分があることを考える。その時に第1の言葉を唱える。自分はこう思う。「これに対してある人は」と唱えることで、反対の立場の意見を意識的に自分で考えてみる。そこで第2の「なるほど」という言葉をつぶやく。反対の立場の意見を自分でいったん受け止めてみる。そして思いを巡らし、発展させる。次に「しかし」と口にする。しかし自分はこう思うと自分の判断を下す、というのです。そうすれば「たぶんそこに思考が生じるだろう」とギットンは述べています。

◆ 自分の頭で考え、判断する・・・・人はしかし、なかなかそのようにはせず、他人の意見に同調し、その時々の大きな流れに乗ってしまうことがしばしば起こります。本来人にはそれぞれ個別の考えがあるはずなのに、それを表に出すことがはばかられるような空気が次第に広がり、多くの人が全体の雰囲気に従って行動するようになる。そのような状況を「『非国民』症候群」と呼びます。戦時中、集団とは違う行き方をしようとする個人を押さえ込むための言葉として、この「非国民」は使われました。現在は、この言葉をそのまま使う人はいませんが、違う形で表現して、人を非難しようとする人はいますし、その場合の精神構造は戦時中とあまり変わってはいないのです。みんなと歩調を合わせ、同じ動き、同じ考え方をしない者は仲間ではない。自分たちと異なったものは排除し、さげすむ。それは今日、子どもの世界で問題になっている「いじめ」の構造ともよく似ています。あるいはマスコミでしばしば行われる「バッシング」という行為も同じです。

◆ この「『非国民』症候群」はイエスの時代、あるいはパウロの時代にもありました。初代のキリスト教会の人たちにとって、イエスが十字架刑に処せられた後、そのイエスこそキリスト=救い主であると信じて、クリスチャンとしての立場を明らかにし、福音を語り伝えることは命がけのことでした。生前のイエスが語った話や教え、またその働きは福音と呼ばれますが、その福音によってユダヤ人の中にイエスを主と信ずる人たちが多く生まれました。しかし当時の社会の中で「罪人」と見なされた人たち、いわば「非国民」扱いされた人たちといつも一緒にいたイエスの行き方をユダヤの人々は受け入れませんでした。やがてイエスは捕らえられ十字架に架けられてしまいます。その時には「イエスの知人」であるというだけで同じように殺されるかも知れないという状況が広がりました。ペトロをはじめとする弟子たちは皆、逃げてしまいました。その彼らがイエスの死後、ちょうど50日たった時に、外から注がれた不思議な力、聖書はそれを聖霊と呼んでいますが、その働きかけを受けて、十字架で死んだイエスをキリスト=救い主であると語り、福音を伝える活動を始め、広げていきました。

◆ イエスの十字架の出来事を挟んで、弟子たちに起こったこの変化を、エフェソの信徒への手紙は「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」と表現しています。「新しい人を身につける」、それは今までもっているもの、身につけているものに、もう一つ新しいものが加わるというイメージではなく、命の土台が入れ替わるというイメージです。22節以下にそのイメージが端的に語られています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

◆ 古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につける。これはこの手紙が書かれた時代に則して言えば、古い人とは昔ながらの偶像礼拝を続けている人のことです。神ではないものを神とする。真理ではないもの、本当ではないものを真理だという、それは滅びに向かうことだとこの手紙には記されています。そして「古い人を脱ぎ捨てる」とは、自分の体験を人に語ること、言い換えればつながりのなかに、関係性の中に置くことだと思っています。25節以下に「新しい人を身につける」とはどう生きることなのかが記されています。「隣人に対して真理を語ること」「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えること」「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語ること」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合うこと」、いずれもつながりの中に自分を位置づけ、歩むことを促しています。体験は関係の中に置かれて行くとき「水に流される」空しさから脱するのです。

◆ 福音は受け取るだけではなく誰かに伝える、差し出すことによって私たちの中で息づき、命を持つものとなるのです。福音という言い方が漠然としているなら例えば「支え」や「助け」や「慰め」・・・・つまり「一緒に生きるために必要なこと」というふうに置き換えてみるとイメージが具体的に広がります。大切なことはそれを家族のもとに、あるいはそれを必要としている誰かと分かち合うために出かけることです。出かけるということは自分の殻から1歩出てみることです。自分が変わろうとすること、応答してみようとすることです。6:19「福音の神秘を大胆に示すことができるように」、6:20「語るべきことは大胆に話せるように」とあるのはそのことの勧めです。示す、語るとは伝えることであり、運んでいくことであり、届けようとすることです。「福音の神秘を語れ」などと言われると、何か大変なことだと私たちは思わず尻込みしてしまいます。しかしそんなに大袈裟なことではなく、何か自分からやってみるということなのです。

◆ 4:25以下にはそのことが具体的に書かれています。例えば日が暮れるまで怒ったままでいない。盗まない。労苦して得たものの中から分かち合う。悪い言葉を口にしない、あるいは少なくする。神の聖霊を悲しませない。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどを一切の悪意と一緒に捨てる。互いに親切にする。そして赦し合う。・・・・これを文字通りこのままやりなさいというのではありません。例えばこういうことがありますよというリストです。何よりこのリストは、自分の方から1歩を踏み出すことへの促しなのです。福音に生きるとは自分が変わろうとすること、応答してみようとすることです。そして福音を伝えるとは変わろうとする自分を示すことです。人は神に出会って変わりうるのだと、自らの生き方を通して示すことです。

◆ 「神にかたどって作られた新しい人を身に着ける」このことばを、8月という月に重ね合わせて読むならば、それは戦争の歴史の事実と向き合い、受けとめ考えること、そしてそれを自分が今もっているつながりの中で語ること、次の世代に伝えようとすること、そのような生き方を選び歩み出すことだといえるのではないかと思うのです。

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