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2014年5月18日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年5月18日(日)午前10時30分
復活節第5主日
説 教:「実を結ぶために」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書15章1-11節
(新約p.198)
招 詞:出エジプト記15章3-5節
讃美歌:27、206、448、76、91(1番)
交読詩編:95(p.105上段)

※次週の礼拝は、同志社女子大学栄光館フラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

2014年5月11日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨  復活節第4主日 2014年5月11日                    
ヨハネによる福音書13:31-35  「今しばらく共にいる」

◆ 「今更あらたまってそのようなことをおっしゃらなくても・・・」もしイエスが目の前におられたら、思わずそのように言いたくなるのが今日の箇所です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」。「新しい掟を与える」と切り出されたら、いったいどのようなことであろうかと緊張します。しかしイエスが提示したのは「互いに愛し合いなさい」でした。そのようなことは、わざわざ「新しい掟を与える」などと宣言した後でおっしゃることでもないでしょう、そう言いたくなる掟です。それをいまさら「新しい掟だ」と言ってイエスが語るのはなぜなのでしょうか。

◆ そのことに疑問をもち、その「なぜ」へのひとつの答えを記している文書が聖書の中にあります。それはヨハネの手紙です。この手紙はヨハネによる福音書より少し後の時代に書かれたものですが、そのヨハネの手紙Ⅰの2章に、やはり「互いに愛し合うこと」が説かれていて、それは「新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたがすでに聞いたことのある言葉です」と記されています。しかしその上で次のように続けています。「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。」(2:8-11)誰もが知っている古い掟であるはずの愛、相手を大切にする生き方、しかしその愛、その生き方から誰もが外れて闇の中を歩いているというのです。そしてその闇の中を歩いていることの明確なしるし、証拠は「兄弟を憎んでいる」ことだと記されています。

◆ 「兄弟を憎む」とは具体的にどのような事態を指しているのでしょうか。これはヨハネ福音書が書かれた事情とも通じていることだと思います。もちろんヨハネによる福音書とヨハネの手紙が書かれた時期は異なりますから、事情が同じというわけではありません。しかし「兄弟を憎む」というヨハネの手紙に記されているこの言葉の背後には、ヨハネ福音書が書かれた時代、紀元90年代の教会、福音書記者のヨハネ自身も属していた教会が直面していた大変困難な状況が重なり合っていると思います。少し当時の歴史をひもといてみます。ヨハネが福音書を書いた時より30年ほど前のユダヤではローマ帝国の支配から独立しようとして武装闘争が起こり、ユダヤ戦争と呼ばれるローマとの戦いに発展し、ユダヤの国は騒然とした状態になっていました、そして紀元70年、ユダヤの都エルサレムはローマ軍によって包囲され、街は神殿もろとも壊滅されました。エルサレムの神殿が壊滅したことは、神殿を基盤としていたユダヤ教を存亡の危機に陥れました。ユダヤ教はその危機を乗り越えるために、保守的な姿勢を強めて行きました。律法の遵守を押し進め、やがて自分たちの律法理解、律法解釈に合致しないすべての立場を「異端」として排除するようになりました。正統と異端の線引きが明確に行われるようになったのです。異端排除の主たる対象はキリスト教徒でした。70年のユダヤ戦争が起こる前までのユダヤ教はもう少し柔軟性がありました。キリスト教徒はユダヤ教の中に出てきた何だか新しがり屋のグループだという程度にしかみていなかったのです。しかしエルサレム陥落後のユダヤ教は、自分たちを守るために、立場が違う者は排除するという姿勢を急速に強め、その矛先をキリスト教徒に向けました。そしてナザレの人イエスを「キリスト」だと告白する者を異端として、ユダヤの会堂から追い出してしまったのです。

◆ この異端排斥の動きは、福音書記者のヨハネが属していた教会にも厳しい試練として降りかかってきました。教会の人たちは、このような緊張関係の中にあって、それでもユダヤ教の人たちになおもイエスの福音を語りかけ、証ししようとしていました。それはとても筋の通った生き方です。しかしそういう苦しい状況の中で、筋の通った生き方を貫くのは誰にとってもしんどいことであったはずです。いつかくたびれてしまって、もう嫌だ、いくら語りかけても迫害され、自分たちの伝えようとしていることを全く分かってもらえない。そういう現実にぶち当たって、苛立ったり、諦めてしまうことがあったはずなのです。そうすると自分たちも排他的になってしまうのです。語りかけをいっこうに聞いてくれないユダヤ人は働きかける対象から外すべきだという立場と、いやあくまで働きかけを続けるべきだという使命感と、この二つの間で教会の人たちは揺れ動きました。この問題の解決をはかるために、ヨハネ福音書は書かれたのです。正統か異端かという問題は、はじめはこのようにユダヤ教とキリスト教との間に生じました。ところが少し時代が下るとキリスト教の内部で正統か異端かという問題が発生しました。ヨハネによる福音書は同じ正統と異端でもユダヤ教とキリスト教との間の異端の問題の解決のために書かれた文書です。これに対してキリスト教の内部に生じた正統と異端の問題に向けて書かれたのがヨハネの手紙です。
 立場が異なることが原因となって軋轢が生まれる。ヨハネによる福音書とヨハネの手紙では、軋轢の具体的な内容はヨハネ福音書がユダヤ教との間での対立、ヨハネの手紙は教会内部での対立と事情は異なっています。しかし「正統か異端か」という、現代でも繰り返されているこの問題に向き合うために提示しているのは同じ教えです。「互いに愛し合いなさい」。しかもそれを「新しい掟」として示すということです。

◆ その新しさとは何か、新しい掟として示すとはどういうことか。それは34節に記されています。「わたしがあなたがたを愛したように」ということです。それが新しさの中身です。どういうことか。ヨハネ福音書もヨハネの手紙も「互いに愛し合う」ということを、人の心がけや決意を根拠にして「互いに愛する」ことを実現していきましょうといっているのではありません。愛の根拠は別にある。それが「わたしがあなたがたを愛したように」です。神がまずわたしたちを愛してくださった。イエスは私たちのために命を捨てて下さった。だからわたしたちは初めてそこで「愛」を知り、そして誰かを愛するのだということです。愛は具体的な出来事から始まるのです。愛は教えや知識として伝えることが出来るのではありません。いくら本を読んでも愛を体得することは出来ません。また人間は生まれたときに、はじめから「愛」を種のように持っているのではありません。両親が名前を呼んで語りかける、抱っこする、ミルクを飲ませる、おむつを替える、お風呂に入れる、そのような具体的な関わりの体験を通して愛を学び体得していくのです。愛の始まりは観念や思想の中にあるのではなく、事実の中にあります。神が私たちを愛して下さった、この事実によって人は愛を体得したのであり、「互いに愛し合う」ということもこの事実に基づいて初めて成り立つのだということ、それが「新しさ」の中身です。

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