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2014年5月25日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]


2014年5月25日(日)午前10時30分
復活節第6主日
説 教:「再会の約束」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
16章12-24節(新約p.200)
招 詞:ローマの信徒への手紙8章22-24節
讃美歌:28、6、479、403、91(1番)
交読詩編:15(p.15下段)
※次週礼拝後に風の会が行われます。どなたでもご参加ください。

2014年5月18日の説教概要 [説教要旨]

説教要旨  復活節第5主日 2014年5月18日                    
ヨハネによる福音書15:1-10 「実を結ぶために」
◆ 聖書の中に命についての奥義を語った言葉があります。創世記(2:18)に記された言葉です。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。聖書はこの一句にいのちの奥義を言い表しています。いのちはもうひとつのいのちを必要とする。隣人を必要とする。ひとりぽっちでは、いのちは本来の息づかいをすることが出来ない。生きる意味もまた生き甲斐もひとりぽっちであったなら、どんなに自分の中を探しても見つからない。たとえどんな知識や業をたくさん身につけたとしても、ただそれだけでは何の意味もないし、またその人を生き生きさせえることもない。誰かと一緒に生きて、共にあることのために使うからこそ知識や技術は意味をもちます。それは私たちのいのちが神によってそのように創られたからです。

◆ 福音書記者のヨハネはつながりの中にあるいのちを、葡萄の木にたとえて語りました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 ぶどうはキリスト教のシンボルのひとつになっています。ぶどう畑を作りその実を収穫することは非常に手間のかかる仕事であり、良いぶどう畑やぶどう園を維持して行くためには周到な準備と多くの労力を注ぐことが求められました。それゆえイスラエルでは、このぶどう畑やぶどう園が、神がその民を守り育てるためにどれだけ犠牲を払って下さったかを示す比喩として用いられました。

◆ 最後の晩餐の席でイエスは弟子たちに、神と自分と弟子たちとの関係、結びつきをぶどう園の農夫と、そこに植えられているぶどうの木、そしてその木につながっている枝という、当時のユダヤの人々にとって親しみのある情景を具体的な例として挙げながら語りました。ここでイエスは、弟子たちはぶどうの木につながっている枝なのだと言っています。枝の生命は幹に依存しています。根と幹とによって供給される養分によって、はじめて枝は葉を茂らせ実を結ぶことが出来ます。枝は決して自らの力で育ち生きるのではありません。けれどもわたしたちがぶどう園という言葉を聞いて思いうかべるのは葉を茂らせた枝であり、また実って垂れ下がっているぶどうの実です。ぶどうの木や幹、ましてや農夫の苦労に最初に思いが向けられることはまずありません。収穫期を迎えたぶどう園の主役はぶどうの木の枝と、そこにたわわに実った多くの実です。木をずっと手入れし、労苦を重ねてきた農夫の姿は収穫期を迎えたぶどう園の情景の背後の押しやられてしまいます。

◆ 実とは人間が実際に自分で見て、触れることのできるものを表しています。私たちの現実の中では、その実が中心に置かれます。しかし聖書は隠されている世界、背後に押しやっている世界に私たちが思いを向けて行くべきことを語りかけます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、このイエスの言葉は人間とはいかなる存在かを宣言している言葉です。人は「枝」なのです。私たちは自分が幹であるかのように思っています。自分の力で立ち、自分の力で生きていけると思っています。イエスはそうではないと宣言するのです。あなたがたは枝なのだ、幹から供給される養分によってはじめてその命の営みを継続できる枝なのだとイエスは言います。

◆ イエスはそのような枝である私たちに「わたしにつながっていなさい。」(4節)「わたしの愛にとどまりなさい」(9節〜10節)と繰り返し語りかけるのです。そして言います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(12節)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと(16節)。愛には明確なひとつの順序があります。それは決して逆転できない順序です。人間は、はじめから愛を内に抱いて生まれてくるのではありません。愛はまず外から届くのです。両親や周囲の人たちから愛を注がれることによって、つまりまず愛されることを十分に味わって、はじめて人は愛することの大切さ、愛を注ぎ出すことの深い喜びと意味を知っていくのです。ですからイエスはまず「わたしがあなたがたを愛したように」と言うのです。そしてそのことをあくまでも前提として「互いに愛し合いなさい」とイエスは語っているのです。
 
◆ イエスはこの愛を人が「友のために自分の命を捨てること」(13節)という表現で示しました。友ために自分の命を捨てる。それは仕えるということの究極的なありようです。しかしコリントの信徒への手紙一13:3「自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」とも語られています。友ために命を捨てるということは、神の愛に支えられていなければ、神の愛に裏打ちされていなければ無益だというのです。命を捨てることが無条件に意味を持つということではなくて、どこに向けて命を託して行こうとするのかということを聖書はわたしたちにあくまで問いかけます。イエス・キリストは十字架の孤独の中で、なおその命を神の手に委ねました。その点がしっかり押さえられなければなりません。

◆ 今私たちの国の政権、為政者たちは秘密保護法、国民投票法、集団的自衛権、ときわめて危うい方向へと舵を切っています。先の戦争で、日本という国は「お国のために」という枕詞をつけて、命を投げ出すことは尊いことだと盛んに強調し、愚かな戦争の道を歩みました。命は国に託すものではありません。なぜなら国は命の創り主ではないからです。これまでの歴史の中で国はどの国も、人の命を奪ってきましたけれども、命を創りだした国などどこにもありません。その国のために命を捨てろという、その言葉に踊らされていくことは愚かなことです。そのことをかつての歴史の中で痛いほど学んできたはずです。敗戦から69年、その戦争の歴史を忘れていいのかと問われている時代にわたしたちは生きています。人の命は創り主である神にだけ託し、委ねるものです。わたしたちの命は幹である神につながっていて、初めて葉を茂らせ実をつけることができるのです。「あなたがたは枝なのだ」というイエスの宣言にきちんと立つことが求められているのです。

◆ 14-15節でイエスはこう語りました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」あなたがたを友と呼ぶという、その理由は主人が何をしているかを知っているからだとイエスは言います。今日の箇所で、主人が何をしているか知るということは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られている命の位置づけ方をきちんと受けとめているということです。そのことをきちんと知って生きていくということです。そのように生きようとしていく者をもはやわたしは僕とは呼ばない。友と呼ぶとイエスは語ったのです。イエスから友と呼びかけられる私たちであり続けたい、と思います。

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