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2013年9月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年9月15 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節18主日
説 教:「神と人への戒め」 牧師 望月修治
聖 書:出エジプト記 20章1~17節(旧約p.126)
招 詞:エフェソの信徒への手紙 5章1-2節
讃美歌:24、206,522、552、91(1番)
交読詩編:119;33-40(p.133上段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。また、礼拝後ファウラーバザーも行われますので、みなさんどうぞお越しください。

2013年9月8日の説教概要 [説教要旨]

聖霊降臨節第17主日礼拝  2013.9.8
説教:「ひとつの落ち度」  望月修治
聖書:ヤコブの手紙 2章8~13節

◆ ヤコブの手紙は、教会の人々が、神の意志に従うことよりも、世俗社会の価値観の方を優先させ、信仰者として本来あるべき姿を失っていることに対して警告することを目的として書かれた手紙です。2章1節に「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と記されています。これは手紙の著者が読者に提示した大原則です。そしてそのことを人々に具体的に思い描いて貰うために、事例を一つ挙げています。もし教会に「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚らしい服装の貧しい人」が入ってきたとしたら、あなたはどのように対応しますかと問いかけます。

◆ 家の集会に集まっていた人が、この人たちが全く異なる対応をすることが問われています。立派な身なりの人には特別目を留めて「さあ、こちらへどうぞ」と席に案内するけれど、貧しい人には立ったままでいても声を掛けないままか、あるいは声を掛けても「わたしの足元に座っていなさい」という扱いをするだけだとしたら、それは重大な問題だというのです。
なぜキリストを信じる者の集会では、金持ちと貧しい者の間に分け隔てがあってはならないのか。この手紙の著者は道徳論として、あるいは人間の倫理として分け隔てはいけないと戒めているのではなく、その理由を5節で述べています。「神は世の貧しい者をあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」教会の集会、キリストを信じる者の集いの基本は何か言えば、私たちが主人公となって皆を呼び集める集会ではないということです。神に招かれて集う集会であり、神の招きに応えて礼拝を献げるのです。毎週の礼拝の初めに招詞が司式者から告げられるのは、礼拝が神の招きによってはじまるものであることを示しています。神は貧しい者を選び、生かし、用いてこられた方であることを私たちは知っているのではないか。金持ちも貧しい者も何れも神に招かれている者であるのに、なぜその神の招きによって行われている教会の集会で、両者を分け隔てするということが起こるのかとこの手紙の著者は問うています。

◆ 加えてこの手紙は教会での分け隔てを「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めと結びつけています。8節では「最も尊い律法」と表現されていますが、この「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)という戒めは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という戒めと共に、イエスが聖書の中で最も重要なこととして語ったものです。人を分け隔てすることは、この戒めに背くことだというのです。これはおそらくこの手紙の読者である人たちが、いや自分たちはちゃんと「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを重んじ、実行していると言っている現実があったからだと思われます。このことについて、10節で「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となるからです」と述べられています。人を分け隔てすることは戒めの中の一つを守らないということに留まるのではなく、根本的な土台の部分が崩れていることなのです。何故そうなるのか、それは5節「神は貧しい者を選び、信仰に富ませ、神の国を受け継ぐ者となさった」からであり、それゆえに人が分け隔てするのは神の意志を軽んじることだというのです。

◆ キリスト者とそうではない人たちとの違いはどこにあるのか、と問われます。例えばボランティア活動や奉仕活動、いろいろなNGOを立ち上げて社会の必要に対応すべく活動する、そういう活動においてキリスト者ではない人たちの方がはるかにたくさんの、また大きな働きをしておられることは枚挙にいとまがありません。それでは証しにならないから、キリスト者はもっと頑張って、そうした働きを越えるような活動をしなければならない。そうしなかったらキリスト者である意味を示すことができないということなのでしょうか。そうであるならキリスト者であることは随分としんどいことです。両者の違いはどこにあるのか。今日の箇所はその問いへの答えを用意しています。たとえば1節です。「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」私たちのそれぞれの歩みは、神の招きへの応答なのだということです。神の御心、神の意志にそうものであるかどうか、そのことを問い、その答えを求めて祈り、働きを担い、活動する、そこにキリスト者として生きることの基本があるのです。


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