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2013年9月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年9月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節17主日
説 教:「ひとつの落ち度」 牧師 望月修治
聖 書:ヤコブの手紙 2章8~13節(新約p.423)
讃美歌:29、3,438、419、91(1番)
交読詩編:15(p.15下段)
招 詞:エフェソの信徒への手紙 4章1-3節

※次週の礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

2013年9月1日の説教概要 [説教要旨]

聖霊降臨節第16主日礼拝  2013.9.1
説教:「派遣の目途」  望月修治
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10~17節

◆ パウロは、2回目の伝道旅行の時に、コリントの町を訪れ、1年半も滞在しました。商業都市であったコリントの町には、様々な文化、生活習慣の違いをもった人たちが集まってきていました。異なったものに対する柔軟性をもっていた町でしたが、しかしそれ故の問題も多く抱えていました。その中で大きな問題となっていたのは、指導者をめぐる対立です。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と言い合い、コリント教会に派閥争いが生じました。

◆ このような分裂がコリント教会に高まってきた原因は洗礼にありました。洗礼は回心のしるしである厳粛な儀式ですが、逆に、そうであるがゆえに洗礼を授ける者との結びつきが強く生じることも起こりえます。しかし、そのことによって人間的な絆が強化され、その分、神との結びつきが希薄になるようなことになれば、洗礼の本質、信仰の本筋から離れてしまうことになってしまいます。「わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれにも言えないはずです」と、パウロが洗礼を巡る誤解を指摘するのも、そのことを何より懸念したからだと思います。

◆ それでは洗礼の本質とは何なのか。パウロは「イエスの死にあずかる洗礼」と述べています。ローマの信徒への手紙6章3節に次のように記しています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」 キリスト者とそうでない人たちを分けることになる洗礼のポイントは「イエス・キリストの死にあずかるかどうか」という点にあるのだということです。

◆ 「死」というのは、それまで大切に守っていたものが、全く通用しないと気づく体験です。今まで自分が中心だった、自分の力で生きて来たと思っていた。しかし実は、圧倒的な他者の力で生かされていることに目覚める体験です。今までの世界観が完全に反転すること、それまで大事にしてきたものを「それが何?」と一蹴されてしまうこと、それがイエスに出会うということであり、「イエスの死にあずかる」ということです。ボヘッファーは「イエスの招きはすべて死に通ずる」と語りました。何よりもイエスが自らの十字架の苦しみを「わたしが受ける洗礼」(マルコ福音書10:38)と呼んでいます。

◆ 「わたしはパウロから洗礼を受けた」と人々が語る洗礼と、「イエスの死にあずかる洗礼」とパウロが語る洗礼との隔たりは、「キリストの十字架がむなしいものになってしまう」と危機感をもって語らざるを得ない深刻さを宿しています。

◆ 分裂していくことは、人間が形づくる集団の宿命的な傾向かも知れません。分裂は自分と異なった立場や考え方、あるいは存在に対して自分を閉じてしまうことによって生じます。一致とは同じ考え、同じ思想、同じ価値観を共有し、そうでない者を排除するということでもたらされるのではありません。少なくともそれは豊かで深く、人を生かす一致ではありえません。日本語の「和」という字は「のぎへん」に「口」と書きます。それは収穫物を食べる行為、生きるという尊い目的のために異物を受け入れる行為を象徴しています。「和」とは他者を受け入れ、個性を尊重しあい、それぞれの役割を果たし合うことによって、自分の力だけではできないことを味わい知るのです。

◆ 教会はこのような意味で一つになることのもつ意味と大切さを、自らの歩みを通して証しすることを神から託されています。

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