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2013年8月4日の説教概要 [説教要旨]

聖霊降臨節第12主日(平和聖日)礼拝 2013.8.4
説教:「別れの光景」  望月修治
聖書:使徒言行録20章17~35節

◆ 日本国憲法の前文をお読みになったことがおありでしょうか。前文には第2次大戦の体験を踏まえて、戦争を放棄し平和を維持するために国家の名誉をかけ、全力を挙げると謳われています。その文体は格調高く、そこに謳われている平和を達成しようとする意志の明確さは世界に誇るべき崇高さを宿しています。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」もし私たちの国がこの憲法前文に謳われた理想と目的にそって自覚的な国づくりを戦後してきていたなら、私たちは自分の国を誇りとすることが出来ていたかも知れません。しかし68回目の終戦記念日、歴史の内実から言えば敗戦記念日を迎えようとしている今、私たちの国の現実は憲法前文に謳われた姿、理想とは正反対の位置にあります。平和ではなく「戦争が出来る国づくり」が着々と推し進められているからです。

◆ ヘブライ語で「平和」は「シャーローム」です。この言葉には広くて深い意味が込められています。シャーロームは、決して戦争がない状態を指しているだけではなく、もともとは個人の生活、あるいは社会全体が生き生きと活気づいていて、生命が充満していることを意味しています。イエスは「平和をつくり出す人は幸いである」と語りました。イエスが語った「幸いな者」になるために私たちはどのように歩むべきなのでしょうか。

◆ 使徒言行録20章17節以下には、3回目の伝道旅行を終えたパウロが、各地の教会から捧げられた献金を携えて、紀元56年の春に、エルサレムを目指して海路をたどったときのことが語られています。その途中、小アジアのミレトスで彼パウロが語った別れの説教が記されています。その中で「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」と語り、自らの死を予告します。エルサレムに向かう旅は何が待ち受けているのか全く見通せない。ただはっきりしていることは「投獄と苦難とが待ち受けているということ」だというのです。何故そのような道を歩もうとするのか、それは「霊に促されてエルサレムに行く」のだと語られています。

◆ 「聖霊に促されて」という言葉は抽象的に語られたのではなく、復活のイエスに出会い、生前のイエスの歩み、イエスの語った言葉、イエスが行った業がもつ意味を知り、そのひとつひとつに深く打たれ、揺り動かされ、生き方を180度転換させられたという、自らの体験に裏打ちされた言葉です。ナザレのイエスという「一人の人」の言葉と業と十字架の出来事が一人の人を変えました。そして教会もその一人の人から始まりました。一人からはじまる。これは神から私たちに示された、神の招きに応えて生きることへのメッセージなのだと思います。一人から語り出し、歩み出すというあり方です。教会はイエスという一人の人の死を語り続けてきました。そこに教会のいのちが宿り続けています。ナザレのイエスという一人の人の生涯とそこで語った言葉と行った業と、そして十字架の死と復活と、この一人の人が生きた生涯。その言葉、その業、そこに人々が見た神の業を、教会は語り続けてきています。そしてこれからも語り続けて行きます。この具体的な一人の人の十字架の出来事から神の命は私たちに届き続けているのです。私たちに対するこの神の働き方は重要です。神は何万、何十万という多数の者を用いて自分の意志を伝えたのではありません。イエスという一人の人を通してその愛を伝え、その言葉を伝え、意志を伝えたのです。この伝え方を私たちは聖書から学ばなければなりません。

◆ 平和を語る、平和をつくり出す、平和を守る、それは多数でなかったら何も出来ない、そう言って諦めてしまう。そんな集会に行ったって意味がない、そういって退いてしまう。それだったら私たちは次の世代に平和を残すことは出来ません。人任せにしたら、自分子どもに、自分の孫に平和を残すことは出来ません。私自身が、みなさん自身が自分の言葉で、自分の思いで平和の大切さを語らなければ、一体誰が私の家族に、みなさんの家族に平和を語るのですか。他人の言葉ではなくて、自分の言葉で、自分のいのちを通して語らなければ「平和をつくり出すことは幸いだ」というイエスの招きに応えることは出来ません。「自分一人がいくらやっても」という思いを捨てること、そして立ち上がること、それが、神がイエスの十字架の出来事を通して私たちに示したことなのです。一人の人から神の愛はたくさんの人に伝えられていきました。平和を守る、平和をつくり出すということは、そういう一人一人の歩みから根付いて行くのだと思います。

◆ 旧約聖書のイザヤ書52章に「いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と記されています。平和を伝えるこの使者の足は、きれいではなかったはずです。埃にまみれ、泥に汚れていたはずです。しかしこの使者の足はなんと美しいことかと第二イザヤは語りました。この美しさを私たちは自らの行き巡る足の美しさとして受けとめたいと思います。こういう美しさを自らの人生の中で持つ者になりたいと思います。

2013年8月18日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年8月18日(日)午前10時30分
聖霊降臨節14主日
説 教:「希望の道を」
牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒への手紙
8章18~25節(新約p.284)
讃美歌:29、59,127、534、91(1番)
交読詩編:90:1-12(p.100下段)
招 詞:ハバクク書3章17-19節

※次週の礼拝は、通常通り同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。暑い日が続いていますので、みなさまお気をつけてお越しください。

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