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2013年6月30日の説教概要 [説教要旨]

聖霊降臨節第7主日礼拝  2013.6.30
説教:「立ち止まる恵み」  福山裕紀子
聖書:マタイによる福音書7章1~14節

 本日与えられました聖書は、イエスが語った山上の説教の中で、「人を裁くな」ということばが取り上げられている箇所です。私たちは、誰かの振る舞いや失敗にいらだちを憶えてしまうことがあります。いつもはお互い様と思ってはいても、一旦他人のやることなすことにいらだちを憶えれば、自分の目の丸太に気がつかなくなって、人を責めてしまうものです。人を裁くふるまいは、人ばかりに目を配り、つい神さまのことを見なくなってしまう人間の姿であるということができるでしょう。
  「裁く」ということばは、原語では「区別をする」という意味をもっています。ですから1節と2節のことばは、人ばかりをみつめ、神を見ない生き方をすれば、あなたも神から同じように区別されるのだと言い換えることが出来ます。区別とは、自分がしてきたあやまちの分、神から罰や報いを受けるといったものとは性質の異なるものです。イエスは決してそのようなことを示しているのではなく、私たちは神さまから離れる生き方をするのか、しないのかという選択を問われているのです。
 そのように問われれば、もちろん神とイエスとともに生きていく事を求めたいものです。イエスは人を裁くなという教えのあとに、続けます。7節「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすればみつかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。」。イエスは、このようにあきらかに私たちの側から必死になって神さまを求めよと強調しています。ここではひたむきに祈り、神さまを求めれば、必ず神さまから働いてくださることが述べられているのですが、私たちは注意深くこのことばを受け取らなければなりません。なぜなら、求めなさい、そうすれば与えられるということばは後に続く、人にしてもらいたいと思う事は、何でも、あなたがたも人にしなさいということばが併せて、イエスが示す求めの、具体的な態度であるからです。この教えは、人ばかり見つめる人間の生き方ではなく、神に照準をあわせて、生きる生き方そのものをさしています。
 自分のしてもらいたいことは何でも、他人にするというのは、一見シンプルなように思えて、なかなか難しいものです。なぜなら自分がしてほしいことをするというのは、相手にとっておせっかいになったり、相手を傷つける可能性をもつ、取り扱いが非常に難しいものだからです。自分がしてほしくないことは、他人にしないということの方が、まだ実現可能かもしれません。
 アメリカの木版画家に、フリッツ・アイヘンバーグという方がいらっしゃいます。アイヘンバーグさんの作品のひとつに、「炊き出しの列にならぶイエス」というものがあります。この作品は、ニューヨークのある公園での一風景で、路上で生活をされている方々が炊き出しの列に並んでいる様子が描かれています。この絵には7人の、路上で生活をされている方々が列に並んでいる様子を描いています。この絵に描かれている人たちはとても寒そうに体を固くし、背中を丸めて順番をまっています。列に並ぶ人は、上着の襟を立てたり、ブランケットに体をぐるぐるとくるまり、寒さをしのぐ姿があります。おそらく、路上生活では命に関わる、厳しい冬を表現されているのではないかと思います。またある者はうつむき、暗い表情で順番を待っています。そんな構図のちょうど真ん中に、イエスが立っているのが描かれています。その立ち姿はうつむいており、一目ではそれがイエスかどうかもわからないほど、貧しく、失望している人々と変わらない姿で、イエスは列に並んでいます。この絵が非常に興味深いのは、イエスが炊き出しをする側として描かれるのではないことです。自分がしてほしい事は他人にしなさいというイエスのことばがあるなら、イエス自身も炊き出しの側にまわり、なるべく早く助けを必要としている人に食料が行き渡るようにつとめればいいはずなのです。
 この列に立ち止まるイエスの姿は、13節と14節で狭い門から入りなさいとおっしゃる姿とも重なっています。狭い門とは、おそらく立ち止まることを要するものです。では立ち止まるとはどんな状態でしょうか。それは、困難や生きづらさを痛感させられる時です。その苦しい時は何の為に在るのでしょうか。おそらく、本当に自分がしてほしいことは一体何なのかを気付かせるための時であるのです。
 私たちは立ち止まるからこそ、人から与えられる小さな優しさのもつ豊かな意味に気付かされます。そしてその優しさが、何にも変えられない人間を活かすものであることを知ります。その発見の喜びは深い感謝となっていくことで、人は神を見つめ直すことができるのではないでしょうか。

2013年7月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年7月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節9主日
説 教:「器の用途」
牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒の手紙
9章19~28節(新約p.287)
讃美歌:28、202,564、536、27
交読詩編:102;16-23(p.110下段)
招 詞:マタイによる福音書8章11-13節

※次週の礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。暑い日が続いていますので、お気をつけてお越しください。

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