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2013年5月26日の説教概要 [説教要旨]

聖霊降臨節第2主日   2013.5.26
説教:「明かされる計画」  望月修治
聖書:エフェソの信徒への手紙1章3~14節

◆ エフェソの信徒への手紙は、パウロの死後にパウロの名によって書かれた手紙のひとつです。紀元59〜60年頃、パウロの弟子のひとりによって、そしておそらく獄中で書かれたものだと考えられています。
 エフェソの信徒への手紙はひとつの神秘、あるいはひとつの神の計画を明らかにしています。10節にそのことは記されています。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」という表現は抽象的で分かりにくいのですが、2章14〜16節で少し具体的に語られています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」「二つのものを一つにし」とは、二種類の分断があったということです。イエス・キリストの十字架の出来事は、その分断されていたものを一つに結びつけるために起こされたのであり、その結果、分断は二つとも取り除かれたというのです。
◆ 分断の一つは、「敵意という隔ての壁」といっていますから、神とわたしたち、神の世界と人間の世界の分断を指していることが分かります。創世記の2章に記されているように、人はひとりではなくお互いに助け合って共に生きること、それが本来あるべき人間の生き方だというのが、聖書の人間理解の基本です。人間はこのあるべき生き方、歩むべき道を外れて歩んで来た、それが神に敵対すること、「敵意という隔ての壁」と語られていることです。
◆ もう一つの分断は「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(2:15)とありますから、「律法」を無効にすることによって取り除かれているということになります。したがってこのもう一つの分断は、おそらく「神に選ばれた民」だと自負していたユダヤの人々とそれ以外の人々との分断のことです。もともとユダヤ教の律法は、隔てられていた神と人とを結びつけるものとして定められたはずだったのですが、それをユダヤの人々は自分たちの特権、選ばれた民のしるしとしたために、律法こそがユダヤ教に属する人々と、それ以外の人々との歩み寄りを妨げて来たとパウロも見ています。「規律と戒律ずくめの律法」はもうひとつの「敵意という隔ての壁」であったのです。
◆ この二つの壁は、人がどんなに努力しても、自らの力だけでは取り除くことのできないものでした。神に背を向けて歩み続ける。神など必要ないと言い放って生きる、そのような外れた道に立ってしまったのが人間であり、その人間の側から神に近づくことはできない。また選ばれた民であることを自負するユダヤの人々と他の人々が歩み寄ることも「律法」という宗教上の理由から、困難をきわめることでした。◆「宗教」は英語でreligionですが、これはラテン語のreligioから派生しています。ラテン語のreligioは「ふたたび」を意味する「re」と「結びつける」という意味の「ligare」が結びついてできた言葉です。再び結びつけるというのが原意ですから、「宗教」という言葉の本来の意味は「神と人とを再び結びつけること」です。しかしそれは、しばしば排他的な意味合いで受けとめられ、宗教間の対立を生み出してきました。宗教の本来の意味、本来の役割をとりもどすことが求められています。それはエフェソの信徒への手紙2:16で「(イエス・キリスト)の十字架を通して、両者を一つの体として神に和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と記されている、キリスト教の原点に立ち帰り、立ち直すことです。「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」、それが神の意図すること、神の秘められた計画であるというのがエフェソの信徒への手紙のメインテーマです。
◆ 神の「秘められた計画」をエフェソの信徒への手紙は「和解」という言葉であらわしています。「和解」とはギリシア語でカタラセインといいます。この言葉は「一つのものを他のものと交換する」という意味をもっています。では「イエス・キリストの十字架を通して、神と和解させた」とは、神が十字架の出来事を通して人間と何を交換したというのでしょうか。人間の側にあるものは、神に背を向けた歩み、的を外した生き方です。その現実を聖書は「罪」と呼びます。神の側にあるものは、受け入れであり、赦しであり、支えであり、備えです。それを「神の愛」と聖書は呼びます。神はその人間の現実、破れ、罪を愛と交換するのです。それが十字架のイエス・キリストが示した神の愛の中身です。では、なぜ神はこのような交換を行うのか。そうしなかったら人は生きないからです。愚かさや過ちを引き受け、替わりに赦しの愛を差し出す。未熟さを引き受け、替わりに積み重ねられた経験を伝える、それが育みを生むからです。人は誰かからそのような交換をしてもらって育ててもらうのです。未熟さは批判しても育ちません。それを引き受け寄り添ってこそ未熟さは幾ばくかでも成熟へと向かうのです。そのための交換を神は人間に対して引き受け続けて下さっています。

2013年6月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2013年6月9日(日)午前10時30分
聖霊降臨節4主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「喜びが語り合われるために」
牧師 望月修治
聖 書:フィリピの信徒への手紙
2章12~18節(新約p.363)
讃美歌:24、91(1番)
 こどもさんびか:19、123、122、24-2
交読詩編:67:1-6(p.70上段)
招 詞:イザヤ書60章19-20節

※こどもの教会と主日礼拝はどちらも10:30からです。栄光館ファウラーチャペルにて行われます。お時間お間違えのないようにお願い致します。

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