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2018年6月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2018.6.10  使徒言行録16:16-24   「聖霊と悪霊、信仰と迷信」(髙田)               

◆ この半年の間に、車のタイヤのパンク、高速道路でのタイヤのバースト、再度のパンクを経験した。こんなふうに不幸が続くと人はその意味を問う。何者かがわたしに恨みを抱き、いたずらをしているのではないか。タイヤの品質に問題があったのではないか。そこから始まり、深い不安と不思議な出来事の連なりが、時には陰謀論を膨らませもする。更に進めば、日頃の行いの悪さや、場合によっては厄年とか悪霊の仕業といったところに原因を求めたりもする。そうなれば、超越的世界の理屈に従って、お祓い、お守り、風水や日の吉凶の占いへと向かうかもしれない。今ほど自然科学の認識が進展しておらず、個人が得られる情報が限られていた時代、不幸な偶然を説明する超越的世界の理屈は、ずっと現実味を帯びていただろう。そのような考え方を、迷信とも呼ぶ。

◆ 迷信や超越的世界の理屈と宗教がどんな関係にあるのかは一つの問いである。古代世界の宗教状況のなかで、これを断固退けようとしたのがユダヤ教であり、旧約聖書であった。「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(申命記18.10-11)。

◆ しかしこのように厳しく禁止されねばならないということは、それだけに、しばしばに人がこれに関わるということを意味してもいる。旧約聖書も、人が迷信にすがる様を描き出している。イスラエル最初の王であったサウルは、預言者サムエルを失った不安と、迫り来る戦争の不安から、口寄せの女を捜し出して、サムエルの霊を呼び出そうとした。何かにすがり、悪い状況を改善したい、不安を鎮めたい、これは実際にそのような状況に追い込まれた時に誰しもが経験することだろう。

◆ たとえ律法によってまじないや占い、迷信が退けられたとしても、こうした問題の領域それ自体は残り続ける。そこで新約聖書になると、こうした領域が「霊」という言葉で表されるようになった。霊的存在としての悪魔も似たようなものである。福音書においては不思議な病や、特殊な人間の状態や振る舞いの原因が悪霊の語で示されている。イエスを試し、ユダを唆したのは悪魔であった。

◆ イエスは悪霊を退け、悪魔の誘惑に打ち勝ったが、それでもこの見えない領域は、人を支配し続ける。そこでイエスの昇天の後、この領域に現れてくるのが聖霊である。悪霊が人に不安をもたらし迷信へと導くのに対して、聖霊は人を信仰と救いに導く。聖霊が悪霊と迷信を退けるのである。こうした確信と信仰の元に、使徒言行録は物語を展開している。

◆ このことを念頭におきつつ、今日の物語を読んでいきたい。物語の舞台はフィリピである。パウロが、第二次宣教旅行においてこの町を訪れたのは、聖霊の導きによるものであったと使徒言行録は語る。パウロは、聖霊により半島東部のアジア州で御言葉を語ることを禁じられた。そこで、北部のビティニア州に足を向けようとしたが、これもイエスの霊、つまり聖霊によって許されなかった。そうしてパウロはトロアスに至る。そのトロアスでパウロはマケドニア人の幻を見て、マケドニア州へと海路を行くことを決意するのであった。

◆ 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした」(16.10)とある。ここで、主語は「わたしたち」となっており、この使徒言行録の著者がトロアスからパウロに同行していることを示している。「わたしたち」という主語が使われている箇所(16-17章、20-21章、27章)から、著者はトロアスでパウロに出会って、パウロをフィリピに導いたとも考えられる。そのようにしてフィリピに入ったパウロ達は、「安息日」に「祈りの場所があると思われる川岸」に行った。そこには婦人が集まっていて、神をあがめるリディアという人がいた。彼女はパウロの話を聞くと、家族の者と共に洗礼を受けた。「主が彼女の心を開かれたので」と著者は記し、これらを神の出来事、聖霊の働きの中で記している。

◆ リディアが洗礼を受けた次の安息日、著者とパウロ達は「占いの霊に取り憑かれている女奴隷」に出会った。占いの霊というのは、原文にはピュートーンと記されている。これは英語のパイソンの語源になっているギリシャ語で、蛇のことである。この蛇はギリシャ神話に登場し、ガイアの神託所のデルフォイを守っていたが、アポロンに殺され、デルフォイはアポロンの神託所となった。アポロンはその神託所の巫女をピューティアーと名付けた。巫女は神がかりになり、謎めいた詩の形で神々のお告げを伝えるのである。このお告げが古代ギリシャではポリスの政治にも影響を与えたという。とは言え、使徒言行録の時代からしても昔々、その昔のお話である。だから、「占いの霊に取り憑かれている」というのは、譬えるならば、「卑弥呼に取り憑かれている」といった感じだろうか。

◆ そんな女奴隷が、複数の主人達に多くの利益を得させていた。いつの時代も迷信を用いて、人の心の弱みにつけ込み、金儲けを企む輩がいるということか。女奴隷は、パウロたちと出会って以来、幾日も付きまとい、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んだ。なぜそんなことを言ったのか。彼女は祈りの場までついて行き、パウロが説く教えを聞いたのかもしれない。女奴隷の叫んだ言葉は、パウロが説いていたであろうことに照らして、間違ってはいない。しかしその表現、おそらくはいつもの託宣の調子で叫ぶというそれは、迷信の枠組みのままであった。占いの霊、蛇の霊にすがることから、今度はそれをパウロに変える。キリスト教に変える。そんな姿には、救いを求めて宗教を渡り歩いたり、スピリチュアルな本を読みあさったりするような人々の姿が重なってくる。

◆ それはまたパウロにとっても誘惑だったかもしれない。しかし、パウロはこれを退けた。後をつけてくるその女奴隷に振り向き、その霊に、すなわちその迷信の世界に対して「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言ったのである。すると即座に、霊が彼女から出て行った。この女奴隷は、パウロの言葉によって迷信の枠組みから自由にされたということなのだろう。

◆ 今日の物語では、聖霊の働きについては明確に語られていなかったが、女奴隷から占いの霊を追い出したその力は、聖霊の働きである。ルカ福音書11章には、イエスの教えとして、汚れた霊を追い出す話が記されている。汚れた霊を追い出しても、そこに新たな主人がいないなら、もっと悪い多くの霊がそこに住み着いてしまう。単に悪霊を追い出すだけでなく、そこを新たな何かで満たさねばならない。そしてそれが聖霊なのである。

◆ ヨハネ福音書は、この聖霊を「真理の霊」と呼んでいる。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16.13)。聖霊は迷信を退け、真理を示す。そしてその真理は「あなたがたを自由にする」(ヨハネ8.32)と言われる真理である。そうであれば、人に自由を与えず、何かに縛り付ける、何かにすがらせる、そのような力を退けるためにも、聖霊を求めて祈らねばならない。それでも、深い不安の中で何かにすがらねばならないならば、いっそすべてを手放して、全知全能にして善でありながら、負い目を負って生きるわたしたちをその愛で包み込んでくださる一人の神に、その愛を十字架と復活によって示して下さったキリストなる神にすがるものでありたい。

2018年6月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年6月24日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日
説 教:「神と民の旅路」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録13章13〜25節
招 詞:マルコによる福音書6章41-42節
交読詩編:33:4-11
讃美歌:28,157,364,360,91(1番)

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