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2018年6月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.6.3 使徒言行録4:13-31 「囚われ人たちの報告」      望月修治     

◆ イエスの地上での旅の終わりは、弟子たちの新たな旅のはじまりを意味しています。イエスの弟子たちやパウロが十字架の出来事の後、イエスの働きをどのように引き継ぎ、福音を伝えて行ったのか、ルカはその弟子たちの旅の物語を福音書に続く第2部として著しました。この第2部はのちに「使徒言行録」と呼ばれて行きます。

◆ 使徒言行録の冒頭1章4節には、復活のイエスが弟子たちにこう命じられたと記されています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」・・・・「エルサレムを離れずに」弟子たちにとってこの言葉が意味することは、イエスを見捨てたその破れの低みに立って自分を見直せという意味での悔い改めを促す言葉です。弟子たちにとってエルサレムは「踏み外してしまった道」そのものでした。弟子たちにとってエルサレムはイエスを裏切り、見捨てて逃げ去ってしまった場所、自分たちの弱さや醜さや不信仰をさらけ出してしまった場所だからです。弟子たちは何を確認しなければならなかったのか、そのことを「エルサレムを離れるな」というこの言葉は象徴的に語っています。信仰というのは人間の熱心や勇気や努力によって始まるものではないということ、正しさとか立派さとか見事さから人間の何かが始まっていくのではないということです。低みに立って見直すとは、弱さと醜さと情けなさと不信仰、その自分の生の姿と向き合うというに他なりません。そこに立つときに人は自分が打ち砕かれるのを覚えます。情けなさに涙が流れます。しか聖書は打ち砕かれ、情けなさに涙することから教会が始まったのだと告げています。

◆ 中国を舞台にした作品「大地」の作者パール・バックのこどもは重い知恵遅れでした。彼女は「何年たっても子供から成長しない、知能がそれ以上に発育しないだろうということを知った時、私の胸をついて出た最初の叫びは『どうして私はこんな目に遭わなくてはならないのだろう』という、避けることのできない悲しみを前にして、すべての人びとが昔から幾度となく口にしてきたあの叫び声と同じ叫び声でした」と述べています。パール・バックがこの悲しみの泥沼から這い出ることができたきっかけは、とても興味深いものです。そのきっかけは、自分自身のことや悲しみのことを考えるのを止め、そして子供のことばかり考えるようになったからでした。「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみは容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのです。」とパール・バックは書いています。「中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時」悲しみに耐えられる方向に向かったというのです。耐え難い苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、なんのために、といくたびも自問せずにいられない、そのような状況に身を置いた人が生きる意味を再び見出す道はあるのか、その手がかりをパール・バックの体験は示します。

◆ イエスの弟子たちがペンテコステの出来事を境にして大きく生き方を変えた、いや変えられたのも同じだったのではないかと思います。使徒言行録は3章には弟子たちの代表格であるペトロが行った二つの働きが語られています。一つは足の不自由な人を治したということであり、もう一つはエルサレムの神殿で説教をしたとうことです。そして4章では、そのような弟子たちの働きに苛立ったユダヤの当局者たちが、苛立ちの原因を取り除こうとしてペトロとヨハネを捕らえて牢に入れたという事件が記されています。当局者たちが苛立ったのは、ペトロたちが「イエス・キリストの名によって」と語り、イエス・キリストと同じようなことを始めたからです。イエスの処刑からまだそんなに時がたっているわけではない。しかもさびれた人目につかないどこかの村や町でというのではなく、こともあろうに都エルサレムで堂々と活動を始めたというのですから、当局者たちは不安を感じます。「すっかりことは済んだはずなのに、何たることか」という彼らの舌打ちが聞こえてきそうな状況です。そこで彼らは不安を取り除いておこうと、ペトロとヨハネを逮捕します。そして十字架で処刑したキリストの名がこれ以上残ったり、広まったりしないように、ペトロとヨハネに、二度とキリストの名によって話したり、教えたりしないようにと命じました。

◆ 釈放された二人は、すぐに仲間の所に戻りました。二人は心配していた仲間に、逮捕されてからの厳しい尋問の様子、そして恐ろしい脅迫のことを報告しました。するとそれを聞いた人たちは、声をそろえて祈ったというのです。その祈りが24節から30節まで書かれています。この祈りは不思議で、また奇妙な祈りです。特に27節と28節です。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手を御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」・・・つまりイエスを十字架につけたのも、ペトロやヨハネへの脅迫も、みな神の意思によるものだと祈っているのです。自分たちのよいと思えることを神の意思によるものだと祈るのはよく分かります。しかしそれだけではなく、悪いと思えること、恐ろしいことも神によって定められたことだと祈っているのです。ペトロとヨハネがキリストの名によって活動したがゆえに脅されたことの中に、神の意志があるのだという祈りなのです。そういう点で、これは不思議な祈りです。またペトロとヨハネが脅迫に耐えて釈放された、そのことがあってみんなで捧げた祈りなのに、二人へのねぎらいの言葉は何もありません。その点でこれは奇妙な祈りです。祈りは自分の置かれた状況を外につないで、そのつながりを通して何かがもたらされるのを待つ姿です。答えは分からないけれども、先の見えない状況の解きほぐしは外から訪れてくる働きかけによってもたらされるのだと受けとめている姿が祈りです。

◆ ペトロとヨハネの報告は決してよい報告ではありませんでした。むしろぞっとするような報告でした。しかしそれを聞いた人たちは、29節「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ったというのです。そして事実、当局の脅しにもかかわらず、彼らは大胆にキリストのことを伝え、キリストの名において人をいやし、さまざまな働きを担って行きました。それはよいことも、そうでないこともみな、神の手のうちにあるのであり、恐ろしいこと辛いことにもきっと神は関わり、見捨てられることはないのだと受けとめたからです。中心から自分を外すことによって納得できたことでした。

◆ 人の目に厳しいと思われる状況の中でも、神が良いとされる何かが隠されていることをこの物語は示します。キリスト教はたったひとりの人、ナザレの出身である一人の人の30歳を過ぎる頃の数年間の歩みから始まりました。たったひとりからです。この事実は、そのひとりの人の能力の高さとか、凄さの故だということを示すのではありません。神がその人と共にいて働いてくださることの凄さを示します。神が必要な人を派遣し、必要な出会いを起こしてくださることを示す。教会はその神の働きを示す「イエス・キリストの名」を背負って歩もうとする者たちの群れなのです。

2018年6月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年6月17日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第5主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「お医者さんに行ったことがありま すか」
       牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書5章27〜32節
招 詞:マルコによる福音書6章2節
讃美歌:27,91(1番)
 <こどもさんびか>19,54,112,137,24-2

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