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2015年4月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年4月26日(日)午前10時30分 復活節第4主日 説 教:「天のパン屋」 牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
 6章34~40節(新約p.175)
招 詞:出エジプト記16章4-5節
讃美歌:29、204、402、419、91(1番)
交読詩編:79;8-13(p.88下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

2015年4月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2015.4.12 学園同志社新入生歓迎礼拝 ルカによる福音書24:13-35 「心が燃えた道」

◆ 新年度を迎えました。新入生の皆さんにとって、大学生活というのは学生生活も授業の形や内容も、高校時代までとは大きく違っていて、まずは興味津々ということだと思います。同志社という学園の印象はいかがでしょうか。履修登録の手続きも少し大変だったかも知れません。同志社教会は同志社大学の神学部に入学された皆さんの履修相談会を毎年4月はじめに行わせていただいています。神学部で学ぶ先輩たちが、シラバスの見方も含めて履修相談を担当して下さっています。そして4月の第2日曜日もしくは第3日曜日には、新入生の皆さん、とくに同志社女子大学のみぎわ寮で大学生活をはじめられた皆さんが来て下さって、この栄光館で一緒に礼拝を守っています。

◆ 同志社の教育の基本を示している一つが「リベラル・アーツ」、「自由教育」ですが、新島は「自由教育」と並んで、もうひとつのことを同志社の教育の根本に据えました。それを新島は次のように語りました。「自由教育、自治教会、両者並行、国家万歳」。自由教育と自治教会、リベラル・アーツと新島がアメリカのボストンで出会った会衆派と呼ばれる自由に溢れたキリスト教の信仰、この二つを車の両輪とすることによって同志社の教育を行うということです。真理を学ぶことと並んで大事なのは、それを深く豊かに生かし用いる心を育てることだと新島は語って止みませんでした。同志社の教育の心柱はキリスト教の信仰なのです。聖書によって心を育てる、それが新島襄の抱き続けた志です。皆さんはこれから同志社で、新島のこと、同志社の歴史と建学の精神のこと、キリスト教のことを、授業を通して、またチャペルアワーなどを通して学び、体験して行かれることになります。取っ付きは必ずしもよくないかも知れませんが、ぜひ向き合ってみて下さい。同志社に入学されたからこそ、与えられたチャンスです。その価値はあるいは卒業後に分かるということになるかも知れません。少し長い時間的スパンを想定しながら、いろいろな体験を重ねる中できっと見えてくる聖書という世界の深い味わい、それを同志社での学生生活の中で発見し、味わってください。

◆ わたしは同志社大学で1コマですが講義を担当させていただいています。先週から講義が始まりましたが、「キリスト教と人間」という科目名です。昨年度の秋学期、この講義を履修して下さった女子学生の方が、期末のレポート試験に次のように書いて下さいました。「同志社大学卒業を目前に控えた今、社会人として働き出す前に、同志社でキリスト教教育を受けたことが自分の人生にどういった影響をもたらしてくれたのか、あらためて強く考えさせられました。もともとは幼稚園からキリスト教の幼稚園に通っていたので聖書や讃美歌、祈りなどになじみはありましたが、やはり深く理解することができたのは、同志社の門をくぐってからです。同志社女子中学、高校での毎週1時間のキリスト教についての勉強、そして毎朝、毎終礼に行われる礼拝、これらの経験は私の思考や生き方に多大な影響を与えてくれました。隣人を愛することとはどういったことか、そしてその大切さ、周りに対する感謝の気持ち、言い出したらきりがありません。辛い時には聖書の好きな箇所を読み、何度もそのことばや教えは私の背中を優しく、時には厳しく押してくれました。そして大学での4年間、私はキリスト教に関する講義を必ずとりました。やはりキリスト教に関する講義を受けると、どこか心がきれいに洗われた気持ちになりました。社会人を目前に控え不安な気持ちがたくさんある私に、望月先生は講義の中であさがおの話をして下さいましたこと、非常に心に響きました。朝顔は夜の闇の中で過ごす時間があるから朝に元気に花を咲かせることができる。「闇」とは暗いイメージを抱きがちだが、本当にそうか。むしろポジティブな気持ちにさせてくれる言葉であるかもしれない。心の穴にしっくりくる言葉でした。視点を転換できずにいた私に対して、「救い」を与えてくださいました。イエスの救いが具現化された瞬間でした。このレポート試験で私の試験は学生生活最後となります。これが最後となることも、おそらく何かしらの縁ではないかと思いますし、非常に嬉しいです。10年間のキリスト教教育の総括です。地の塩、世の光として、10年間学んだイエスの教えを胸に、これからの社会人生活、朝顔のように、精一杯太陽に向かって邁進して参りたいと思っております。」 同志社女子中高、同志社女子部で学んだ先輩です。同志社でキリスト教、聖書に出会ったのです。

◆ わたしは講義の最初の時間に、履修して下さった皆さんに毎学期お話しすることが二つあります。ひとつは「なぜキリスト教なのか」ということです。実はこの問いは私自身の学生時代に問いかけたものなのです。同志社の神学研究科で学んでいたとき、ゼミの教授に問いかけたのです。それは「出会ったからだ」です、と先生は言われました。出会ったからとしか言いようがない出来事なのだということです。わたしにとってそれは目から鱗が落ちた瞬間でした。

◆ もうひとつは「聖書は神の絵本です」ということです。これは私のオリジナルではもちろんありません。ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者が語ったことです。聖書は文字という絵の具を使って神の働きを物語る絵本のようなものなのだというのです。わたしたちは絵本の世界に生物学や物理学などの基準をもちこんでしまうなど愚かなことだと分かっています。そんなことをしたら絵本の世界の面白さは失われてしまいます。ところが聖書と聞くと、人はとたんに科学という基準をもちだしてきます。生物学、物理学、あるいは天文学をもちだしてきます。聖書をよむとき、そこに書かれていることは「嘘か本当か」という読み方をしてしまったら、聖書はまことに面白くない世界にしか見えません。そうではなくて、絵本を読む感覚で聖書の物語を読んでみてください、というお話をさせていただいています。

◆ そんな感覚で今日の聖書の物語を読んでみたらどうなるか。イエスが復活したその日に、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村に向かう二人の人がいたという書き出しで始まっています。復活、死んだ者が甦ったというが、お前はどう思う、そのことを二人はひたすら話し合いながら、10キロの道をエマオに向かって歩いていました。ふと気づくといつの間にかもうひとり一緒に歩いている人に気付きます。そしてエマオの村に着いて、その人も食事に誘いました。すると二人の目が開けて、その人が復活したイエスその人であったと分かった。そして「そういえばエマオに来る道でその人と話しをしていたとき、私たちの心は燃えていたではないか」と気付いたというのです。まことに不思議な物語なのですが、絵本を読む感覚でいえば、わたしたちはおそらくエマオに向かっていたこの二人に自分を重ねて、いろいろと思いを巡らしながら読むことになると思います。よく分からないことに向き合ったとき、どうしたらそれを解き明かすヒントを得ることができるのか。見えないことが分かるとしたらどういう時なのか。

◆ このとき二人は歩いていました。いろいろ話し合いながら歩いていました。見えないものは私たちが動くと向こうからその存在を知らせてくれる、気付かせてくれるのだということではないでしょうか。今私たちは栄光館にいます。座っています。この状態で空気を肌で感じることはありません。でも立ち上がって歩き出したら、空気は流れ出し、その存在をわたしたちに感じさせます。栄光館の玄関から外に出たら、空気は風としてもっと強くわたしたちにその存在を伝えます。同志社という学園で、皆さんは歩き出しておられます。そこに流れ出す風を感じて、どうぞ多くのことに気付き、体験し、そして神の働き、見えないその働きを感じてください。

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