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2015年4月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年4月19日(日)午前10時30分
復活節第3主日
説 教:「焼き魚を食べる」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
24章36~43節(新約p.161)
招 詞:イザヤ書51章4-5節
讃美歌:28、202、517、407、91(1番)
交読詩編:42;2-9(p.46下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
  どなたでもお越しください。

2015年4月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2015.4.5 イースター礼拝  ルカによる福音書24:1-12「なぜ墓の中を捜すのか」   

◆ 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」この言葉を墓にやって来た女性たちに伝えるために、神はイエスを甦らせたあと空の墓に輝く衣を着た二人の使いを残しました。もし墓が空になっていただけであったとしたら、彼女たちは、イエスの遺体が盗まれたとまず思ったでしょう。それが自然です。 

◆ 三日前、イエスは形式的な裁判にかけられた後、ほとんど時をおかずに十字架につけられ、息を引き取りました。そして三日目、安息日が明け、週の初めの日の朝が始まりました。イエスを亡き者にするという目的を果たしたユダヤの指導者たちは、新しい週を、それまでと変わらず、礼拝の準備をし、聖書を読み、律法を確認し、落ち度なく毎日を歩むことが出来るように心配りをしながらで始めようとしています。一方イエスの葬りに立ち会っていた女性たちは、不十分にしか行えなかったイエスの葬りをせめて整った形にしようと、朝はやく、当時の習慣に従って、香料をもって墓に向かいました。

◆ けれども三日前に確かにイエスの遺体を葬ったはずの墓は、空でした。墓にイエスの遺体がないのを見て、女性たちは途方に暮れたとルカは記しています。墓に向かった女性たちは香料を持っていました。それはイエスが死んだこと、イエスとのつながりが終わったことを受け入れてしまっていたことを意味します。死をすべての終わりと理解し、希望もなく右往左往してしまう私たちに、神は「なぜ生きている者を死者の中に捜すのか」と語りかけ、イエスの復活を告げるのです。 

◆ しかし私たちは忘れるのです。忘れて途方に暮れるのです。イエスの復活とともに、すべての闇の力は墓に葬られたはずなのに、私たちはなおも墓の中に頭を突っ込み、墓穴にとどまって「生きておられる方を死者の中に捜」そうとするのです。すなわち自分が理解できる枠の中であくまで判断し、受けとめ、歩もうとするのです。私たちの信仰生活はその繰り返しです。しかし、ルカはそのことを嘆くよりも、そのような自分であることを謙虚に想い起こし、心に刻むことが大事なのだと語っています。6節の後半です。「『まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」とあります。

◆ ルカは、信ずるということにおいて、想い起こすことの大切さを語ります。福音書の最初に物語るクリスマスの出来事の中で、ルカは次のように記しています。羊飼いが天の使いから救い主の誕生を知らされたという出来事を聞いた母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた」。また少年時代のイエスが神殿ではぐれてしまい、両親がようやく捜し当てて、心配して捜していたことを告げると、イエスは「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前ではないですか」と言った。その意味が両親には分からなかったけれど、母のマリアは「これらのことをすべて心に納め」た、と記しています。それから今日の箇所のすぐあとでも、エマオで二人の弟子たちは、イエスが食卓でパンを裂いてわたしておられるのを見て、エマオへの道でイエスが語るのを聞いたとき心が燃えたことを思い出すのです。ルカがこのように想い起こすことの大切さを語るのは、本当に大切なこと、私たちの生き方を方向転換させ、さまざまな呪縛から私たちを解放してくれる出来事の深い意味は、いつでもあとからやってくる。あとになって気づかされるものだからです。

◆ 空の墓を前にして途方に暮れていた女たちも、神の使いから言われて、「イエスの言葉を思い出した」のです。そしてはじかれるように墓を後にし、弟子たちに、墓が空だったこと、そしてイエスが甦ったと、二人の者から告げられたことを報告しました。その弟子たちの中にペトロもいましたが、彼らは誰一人、女性たちの言葉を信じなかった、「たわ言のように思われた」からだと記されています。ところが、ルカはその筆でこう続けました。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走った。」 ペトロは信じてもいないのに、イエスが甦ったなどたわ言だとしか思えなかったのに、なぜ立ち上がり、そしてなぜ墓へ走ったのでしょうか。ペトロは、墓に向かって走るなどということをこの時はじめて体験したのではないでしょうか。イエスのことを三度も知らないと言って見捨てたペトロにとって、イエスを葬った墓など、走っていく所ではありせん。嫌で嫌でしようがない所、重い足取りで行く所です。そんな所へ、遊園地に飛び込んで行く子どものように、飛び込んで行く者はいません。ペトロは、しかしこの時には走るのです。ペトロは女性たちの報告を信じることは出来ませんでした。しかし、墓が空であったということが、どうしても気になってしかたがなかったのです。だから彼は墓に向かって走り出したのです。そして墓の中をのぞき、亜麻布しか残されていないことを見届けました。

◆ ここでルカはさらにもう一つ、興味深いことを書いています。「この出来事に驚きながら家に帰った。」 墓が空であったことを確認し、不思議だとは思ったけれど、イエスが復活したことを信じたとは書いてありません。空の墓をみることと復活を信じることとは別のことなのです。墓が空であることを確認することは、復活を信じる信仰が生まれることにおいて何かの意味を持ったかもしれませんが、しかしそれ自体が、信仰を生むわけではありません。やがてペトロは復活のイエスに会うことによってはじめてイエスは甦ったという信仰を得ていくのです。そしてそのイエスの復活を死ぬまで語り続けて残りの生涯を歩みました。ペトロは、あの週の始まりの日に、イエスの墓に向かって走った思い出を忘れることが出来なかったのだと思います。空の墓を見ながらなお信じることができなかった自分、女性たちの言葉を信じることが出来なかった自分であったことを含めて、忘れることが出来なかったに違いないと思うのです。

◆ イエスの復活をつげる女性たちの言葉を、弟子たちは、たわ言のように思ったという、それは「愚かな話」「空っぽの話」「内容が空虚な話」「くだらない話」だと思ったということです。使徒言行録17章には、パウロがギリシアの都アテネで説教したことが書かれています。その記事によりますと、はじめは耳を傾けていてくれたアテネの人たちも、パウロがイエスの甦りについて語り始めると、「このことについては、いずれまた聞くことにする」と言って帰ってしまったというのです。「いずれまた聞く」とは、実際には、もう二度と聞かないということです。復活を語る言葉は、たわけた話、くだらない話、傾聴する値打ちもない話だと片付けてしまわれやすいのです。

◆ 私たちにとって、復活は確かに信じがたいもののように思われます。しかし、十字架で死んだイエスを主、救い主だと告白する信仰の根幹は、復活を信じるということです。私たちの人生の最後をしっかり死が握りしめていると思っていたのに、それが空しくなったのだという神からの知らせを受け取ることです。

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