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2015年4月19日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.4.19 ルカによる福音書24:36-43  「焼き魚を食べる」

◆ 人は毎日、何度か食事をとります。食事は体の維持に必要不可欠ですが、それ以外に、大きく次の二つの機能を持っていると言えます。一つは、特に家族や仲間内での食事がそうだと言えますが、互いの結びつきを強め、親密な交わりを作るという機能です。そしてもうひとつは、神との交わりを深めることです。出エジプト記にもそのような食事の場面が語られています。24章です。イスラエルの民をエジプトから脱出させた神は、シナイ山で人々と契約を結び、神が与えた十戒を守るならあなた方を支え導くと約束します。その時人々は「神を見て、食べ、また飲んだ」(11節)と記されています。

◆ イエスの受難、十字架にかけられての死、そして復活、この出来事を4つの福音書はいずれも多くのスペースを使って書き記しているのですが、その中で、イエスの十字架を挟み込むような形で、食事の場面が語られています。とても印象的なことだと思っています。ひとつは最後の晩餐と呼ばれている、イエスと弟子たちとの食事です。この食事の席で、イスカリオテのユダの裏切りを、名指しではありませんが、イエスは語りました。またこの食事で、イエスはパンを取って「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」と言って弟子たちに与え、次に杯を取って、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言ったということで、やがて教会は聖餐式としてこの時の食事を記念することになりました。食事という具体的な日常の営みを通して、イエスは神とのつながりを弟子たちと分かち合い、味わうことを求め、促しました。

◆ もうひとつは、二人の弟子が、エルサレムからエマオに向かっていた道で、いつのまにか一緒に歩いていた人とエマオについてから、その人が復活したイエスだとは知らずに共にした夕食です。エマオに向かっていた二人の弟子の一人はクレオパという名であったと記録されていますが、彼らはこの日起こった出来事、墓が空であったという出来事について、イエスの逮捕から裁判、十字架、そして息絶えたイエスの慌ただしい葬りに至る一連の流れを、もう一度おさらいをするかのように話し合いながらエルサレムからエマオヘの10キロ程の道を歩いていました。そしていつのまにか同行する人がいて、エマオまで話し込みながら向かったのです。夕食に誘い、一緒に食事をしているとき、その人が復活のイエスだと気づいたというのです。

◆ この日はしかし、ここで終わりませんでした。この日の物語はさらに続くのです。それがさらにもうひとつの食事です。二人の弟子は、夕方にも関わらず、昼間たどってきた道をエルサレムへと取って返すのです。イエスの弟子たちが集まっている場所に戻った二人は、その日一日、彼らが体験したことを仲間に伝えるためでした。「わたしたちの心は燃えていたではないか」とありますから、おそらくその余韻に押されるように、熱く語ったのだろうと思います。しかしなお、エルサレムにいた弟子たちは、「あの方は復活なさったのだ」と告げられている出来事を信じられず、不思議に思っていたとルカは記しています。

◆ 神の働きが示される。それは、人が持ち得る「理解」の枠組みを突き破って啓示される、明らかにされるのだということです。では、そのように示される神の働きを、わたしたちはどうしたら受けとめることができるのかと、人は戸惑い、悩みます。ルカもその戸惑いを感じていたはずだと思います。そのただ中に投げ込まれるのが、焼き魚を食べるイエスです。信じられず戸惑う弟子たちに、「何か食べ物があるか」とイエスは尋ねます。弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出すと、それを彼らの前で食べたというのです。復活を受けとめる手だて、あるいはきっかけが、なぜ食事なのか、なぜ食べることなのかと思います。

◆ 青森県の岩木山山麓に「森のイスキア」という場所があります。佐藤初女さんが1992年に、さまざまな悩みを抱えている人を受けとめる場として開設された場所です。佐藤さんは季節季節の飾らない料理を作り、訪れて来た人と一緒に食事をしながら、その人が語る言葉に聞き入り、言葉を交わす、ずっとそのことをやり続けておられます。「目の前に、いろいろな困難が立ちはだかったとき、いつも基本に立ち返ってみることで、いままで見えていなかったことに気づくことがあります。基本というのは何かというと、私は食だと思います。一回一回の食を大切にすることで、私はたくさんのものを気づかせてもらいました」と佐藤さんは語っておられます。
 あるとき4人連れの女性の宿泊客がありました。翌朝の食事のときのことです。一人の女性は昨夜から何か考え込んでいる様子でした。思いもよらないことを話しました。「去年、O-157の食中毒で、幼い子どもが亡くなりましたでしょ。私はその子の母親なんです。」 部屋の空気が緊張しました。彼女は、自分は看護師をしていると言いました。看護師の身でありながら、自分のこどもの危機を救ってやることができなくて、もう看護師をやめてしもうと思った。けれど思い直した。それは佐藤初女さんが、ある雑誌に、書いたものを読んだからだということでした。亡くなった人をいつまでも悲しんでいるのではなく、その人が望んだように生きることだ、と書いているのを読んで、どうしても佐藤さんに会いたくて来たんですと彼女は言いました。
 佐藤さんはカトリックの信者です。わたしにとって料理をすることが祈ることだと言われます。食事をし、おいしいと感じると、人は一食ごとに変わっていくのを見るからだと言います。そして例えば、だれにも受け入れられたことのなかった人が、みんなで一緒に食べながら、はじめて自分が受け入れられたと感じ、涙を流す。そんなとき神様の働きを思うのですと佐藤さんは語っておられます。

◆ 人が思索を巡らし、知識を尽くし、データー分析し組み立てなおし、見通しを立て証明する、そのようなアプローチをして事を明らかにし、納得していくことを理解と呼ぶならば、聖書に語られている「イエスが復活なさった」という出来事は、その当時の人々にとっても、今を生きるわたしたちにとっても、理解を超えています。しかしその理解を超える復活という出来事を聖書はわたしたちに提示し続けています。そのために理をとき、そのプロセスを説明書きのように懇切丁寧に解き明かすということはなにもしていません。どうしたら復活が分かるのか、納得できるのか。そのことをどうでもいいと言っているのではない。闇雲に受け入れなさいと言っているのではない。聖書が提供するのは絵を見せることです。文字という絵の具を使って描いた絵を見せることです。一緒に食事をする、焼き魚をイエスが食べる、そういう絵をわたしたちに見せるのです。幼い頃、絵本を見て心がわくわく、ドキドキしなかったか。その体験を思い越しながら、復活という出来事を思うことを私たちは促されているのではないでしょうか。

2015年5月3日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年5月3日(日)午前10時30分
復活節第5主日
説 教:「選ばれし友よ」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
  15章12~17節(新約p.199)
招 詞:申命記7章7-8節
讃美歌:24、120、393、459、524、91(1番)
    第1編497(1番)
交読詩編:119;9-16(p.131下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
ここ数日、例年以上に気温が高い日が続いていますので、みなさま、どうぞご自愛ください。

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