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2014年9月14日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2014.9.14  コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:27-13:13 「その生き方を愛と呼ぶ」

◆ コリントはギリシャの都市です。東西を結ぶ中継地点に位置していたコリントは、豊かな富と文化を生み出し、壮麗なアポロンの神殿がひときわ人目を引く宗教都市でもありました。コリントの発展ぶりはギリシャの中でも群を抜いていたと言われています。このコリントの教会はよい意味でも悪い意味でもエネルギーに溢れた教会であったようです。コリントの信徒へ手紙には、どちらかと言えばコリントの教会の否定的な側面が多く記されています。コリントでの伝道活動は多くの人を集めるに至ったけれども、同時に、多様な人たちが集まってきたが故に、問題が次から次へと吹き出して、いつ亀裂が走るかわからない危うさ、危険を抱えた教会でした。パウロはこの手紙の冒頭からその問題点を取り上げてひとつひとつに戒めや指導を行っています。最初にとりあげられているのは、教会の人たちが使徒たちの名前を揚げて「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」といって分派争いをしていることです。あるいは、自分は「この世で知恵ある者だ」といったように人間的な誇りが横行する。性の乱れ、結婚を巡る迷い、偶像に備えられた肉を食することは良いか悪いかを巡って裁き合う、教会で食事をするときに仕事で遅れて来ざるを得ない人たちへの配慮をせずに先にきた者たちが食事を食べてしまう、霊的な賜物を与えられていることを特権だと受けとめ、おごり高ぶって他の人を見下す、「死者の復活などない」と言う人たち、などなど少しの助言程度では解決できそうにない問題が山積していました。

◆ このことはコリントの教会が特別そうだったのではありません。初代の教会のときにすでにどの教会でも、いろいろな問題や矛盾や対立を内にまた対外的に抱えていたのです。今でもそうですが、現実の教会に対する幻滅から、キリスト教信仰を離れて行ってしまう人は決して少なくありません。しかし聖書を読むと、教会は最初からたくさんの問題を抱え込みながら歩んできたのだということを知ります。人間の集まりとして教会には誤解があり、行き違いがあり、混乱と争いもあります。しかもパウロはそのことを隠そうとはしていません。そして教会の破れや混乱をさらけ出すような手紙を正典として大切に守り、聖書としてそれを後世に継承し、今日に至るまでキリスト教会は「問題だらけの教会」に宛てて書かれた手紙を通して神の言葉を聞いてきました。もしも初期の教会が、教会に誤りなし、問題なしという公式見解を押し通して、臭い物にふたをするという姿勢をとっていたら、その後の教会はどうなっていたでしょうか。神は、問題だらけの信仰共同体、破れや混乱に揺れる教会という現実を通しても、いやそういう現実を通してこそ、福音の奥深さを私たちに示す方なのだということを聖書は示しているのです。

◆ パウロは問題をいくつも抱えていたコリントの教会内部の実情をひとつひとつ取り上げながら、それらの問題を引き起こしている根本原因は「愛の足らなさ」であるとパウロは見ています。8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と記されているのは、コリントの教会の諸問題は何が原因で引き起こされているのか、そして何がその諸問題を解決に向かわせるのかを端的に語っています。

◆ 12章27節以下で教会を人間の体に譬えて、共にいる、一緒にいることはどういうことかを具体的に語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」という書き出しで始まっています。神から与えられた賜物はそれぞれ異なっているけれども、その賜物の異なる一人一人を神は召し出し教会という集まりとして立てておられるのだとパウロは念を押すように書いています。異なった賜物について具体的に書かれているのです。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、奇跡を行う人、病気を癒す賜物を持つ物、援助する者、管理する者、異言を語る者」と続きます。コリントの教会の問題点をこのように指摘した上で、パウロはそれらの諸問題の根本的原因だと見なしていた「愛の足らなさ」についてさらに踏み込んで取り上げ語ります。

◆ 13章は結婚式の時によく読まれる箇所ですから、聖書の中でもとくに知られている箇所の一つです。たとえ異言という天使たちが語るような言葉を語ることができたとしても、たとえ神秘と知識に通じていても、たとえ山を移すほどの信仰があったとしても、わが身をささげたとしても、愛がなければ無に等しいと語ります。13章で語られている愛はいずれもアガペーという言葉が原語では使われています。釜ヶ崎で活動を続けておられるカトリック司祭の本田哲郎さんは、聖書で語られているこの愛を一貫して「大切にする」と訳しておられます。大切にするという訳は聖書が語る愛の中身を深く表していると思っています。一人の目の見えない人にイエスが「何がしてほしいか」と尋ねると「主よ、見えるようになることです」と願ったという出来事が聖書に書かれています。「見えるようになる」とは意味深い言葉です。目の見えない人が見えるようになる、それは大きな変化が起こることを象徴しています。見えるようになる、それはその人ひとりの上に起こる変化ということに留まらず、それによって何をなすか、そこをイエスはいつも問いかけた、促した人だと思うのです。相手が見える、誰かが見える、その見え方は今まで気づいていなかったこと、気づいていなかったその人の物語を見出すということではないのか。

◆ 新約聖書そのものが、実は、イエス・キリストに気づかなかった人々の物語だと言ってよいと思うのです。「まさか、あの人が」という疑い、驚き、当惑が「大工のヨセフの子ではないか」という言葉や、「神の子ならば十字架から降りて来い」という嘲りに表れています。またイエス御自身も「この最も小さい者の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことであり、してくれなかったことは、私にしてくれなかったことである」と言わなければならなかったほどに、思いがけない姿で、イエスは人々の中にあり、ともに歩き、ともに語らい、ともに眠り、ともに食事をした人でした。「最も小さいもの」とは「とてもキリストとは考えられない者」と読み直すことができます。

◆ 人はそれぞれに賜物を神から与えられています。その賜物を活かすのは愛だとパウロは語りました。出会っていくひとりひとりの物語、今まで気づかなかったその人の物語を見出し向き合う、それがその人を愛する、大切にするということであり、与えられている賜物を深く活かす道なのです。愛がなければ無に等しい。全財産を人に施しても、またわが身を死に引き渡そうとも、もし愛がなかった何にもならないと言い切るパウロの言葉は、反対に「愛があれば」ほんのわずかな分かち合いでも、小さな業でも、意味があり価値があることを語っています。「たいせつなものは目に見えない。かんじんなことは、心の目で見ないと見えない」サン・テグジュペリが「星の王子」に語らせている言葉です。

2014年9月28日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年9月28日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第17主日
説 教:「持ちものが息づく道」
牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅱ
9章6-15節(新約p.335)
招 詞:申命記15章4-5節
讃美歌:29、157、517、510、91(1番)
交読詩編:112(p.125下段)

※次週の礼拝は同志社教会ファウラーチャペルにて行われます。
  どなたでもお越しください。

※朝夕寒い日が増えてまいりました。みなさまお体に気を付けてお過ごしください。

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