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2020年4月19日説教要旨 [説教要旨]

ヨハネによる福音書20:19-29 「真ん中に立つ」   望月修治 

◆ ドイツ文学者の小塩(おしお)節(たかし)さんが「バルラハ ―神と人を求めた芸術家―」(日本キリスト教団出版局)という本を書いておられます。その表紙に「再会」と題された彫刻作品が載っています。一人の男にもう一人の初老の男がよろめくように相手の肩に手を置いている、その初老の男を支えるようにもう一人の男の手が差し出されています。とても印象深い作品です。相手を抱き抱えるようにして立っているのはイエスです。その手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。そしてよろめき、すがりつくようにイエスに手を置いているのはトマスです。本日の聖書日課の箇所に描かれている場面です。

◆ トマスは、イエスの弟子のひとりでしたが、イエスが十字架につけられる以前の物語にはあまり登場していません。ヨハネ福音書はトマスの発言を4回記しているだけです。ただその発言内容は、彼の人生観とでも言ったらいいのでしょうか、その人柄を彷彿とさせるものがにじみ出ています。
彼の発言は人間の死に関連しています。最初トマスは、自分の師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志した人でした。人はそのような思いの高ぶりを抱くことがあります。今までの自分の生き方を改めて、新しくやってみようと思う、そう決意をし、心を高ぶらせて歩み始めることがあります。ただ、初めは張り切ったものになりますが、しかし次第にその決意が薄れ、重荷になってしまうことがあります。

◆ 弟子たちがそうでした。イエスが捕らえられ、裁判にかけられると、弟子たちは自分たちも同じようにされるのではないかと恐れ、イエスを見捨てて逃げ出し、身を隠して、ひっそりと暮らしていました。彼らはイエスが亡くなってからも、なお逮捕されるのではと恐れて、「自分たちのいる家の鍵をかけて」(20節)怯えていました。イエスが十字架にかけられ処刑されてから3日目、週の初めの日の夕方のことでした。イエスが突然現れ、怯えて隠れている弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われたとヨハネは記しています。弟子たちは驚いたはずです。十字架で処刑され、墓に葬られたはずのイエスがそこにいるのですから、目の前で起こっている事態を受けとめ理解することは到底できませんでした。その弟子たちにイエスが、確かに自分が、ガリラヤをあなたちと一緒に旅し、3年余の日々をともにしてきたイエスであること、そして十字架につけられたイエスであることを示すために、手と脇腹にある十字架につけられた時の釘跡を見せたのです。弟子たちは驚きました。しかし彼らは「主を見て喜んだと」とあります。イエスが復活したことを素直に喜んだのです。そしてその時イエスが「あなた方を遣わす」と言われた言葉に励まされ、改めて弟子としての自覚をもったのだとヨハネは記しています。

◆ けれどもこの記述はわたしの中で、どこかしっくりこないなと感じます。心に素直にストンと落ちきらない、何かがつかえているような感じがしてしまうのです。その感じを語ってくれているのがルカ福音書24:11です。女性たちがイエスの遺体を葬った墓が空で、イエスが復活されたという天の使いの言葉を伝えた時、弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とルカは報告しています。この記述の方がしっくりくるというのが正直な思いではないでしょうか。
◆ そこで出会うのがトマスです。そしてこの人物に親近感を抱くのです。突然姿を現したイエスを見た弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っているのに対して、「あの方の手の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったという、この出来事のゆえにトマスはキリスト教の歴史の中では「疑い深いトマス」と呼ばれてきました。しかしわたしたちは他の弟子たちよりも、この「疑い深いトマス」の方に親近感を抱くのではないでしょうか。もし自分がこの時トマスが願ったと同じことをすることが出来たら、それはもう文句なしにイエスの復活を認め、受けとめることができると、おそらく誰もが思うからです。見なければ信じないという思いは私たちに共通するものがあります。

◆ そのトマスに転機が訪れます。26節以下です。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」これは八日前と同じ状況です。弟子たちがいる家の戸には鍵がかけられていました。それなのにイエスが来て彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。ただ違うのは、トマスも今度はそこにいたということです。信じないトマスがそこにいる時に、彼が信じることができるようにわざわざ来てくださって、彼を見つめるイエスがいる。それだけではなく、トマスが立っていることのできるように釘跡のある手で彼を支えている。それをバルラハは彫刻作品に刻んだのです。理性や理屈で納得しようとするのではなく、この支えに気づくことがトマスの信仰の始まりとなったのです。バルラハがこの作品を「再会」と名付けた理由でもあると思います。

◆ この「再会」という作品でイエスに支えられているトマスは、明らかに年をとっています。聖書の記述を読むかぎり、トマスがこのとき年老いていたとは思えません。バルラハはイエスに支えられるトマスという存在に、もっと違った意味を込めたに違いありません。人は年を重ねれば、それだけ傷つくこと、道に迷うこと、この世の何ものも信じられなくなること、他人には理解してもらえないで苦しむこと、さまざまな重荷を負って生きてきた体験が積み重なります。「再会」と名付けられた彫刻作品でイエスが支えている年老いたトマスは、そのような私たち一人一人ではないのか。

◆ 今わたしたちは戸惑いと恐れの中にあります。新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。大切な人が病に倒れていく不安に揺らぎ、多くの人が大切な人を失ってしまった痛みと悲しみに打ちのめされています。その真ん中に立ち、わたしたちが倒れないように、心が折れてしまわないように支えるべく、傷跡の残る手を差し伸べて、一緒にここにいると言ってくださる。その復活の主イエスを神は今も、そしてこれからもわたしたちのもとに遣わしてくださる、そう信じています。
   

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