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2020年4月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福音書18:1-10 「明け方の二人のマリア」 望月修治


◆ イエスが十字架にかけられ息絶えたのは過越の祭が始まろうとする金曜日の午後3時を回った頃でした。それから3日後、弟子たちのもとに届けられた知らせがありました。それは復活したイエスからの伝言です。「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会うことになる。」この言葉は弟子たちにとってどのような意味をもったのでしょうか。彼らが何の戸惑いもなく、恐れもなく聞いたということはあり得ません。これは遺言ではないからです。つまり生前イエスが密かに女たちに言い残し、もし自分が死ぬようなことがあったら、その時に伝えてほしいと託した言葉ではありません。十字架にかけられる前にイエスが語った言葉ではなく、十字架にかけられ息絶えた、その時を経て、そして遺体は確かに墓に葬られた、その時点から3日目の朝に、イエスその人から直接女たちに語られた言葉です。驚きなしに、戸惑いなしに、恐れなしに聞けるはずはない言葉です。

◆ 週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアがイエスの遺体が葬られた墓を見に行ったとマタイは記しています。イエスが息たえたのは安息日が始まる直前でした。ユダヤの掟は安息日の労働を禁じています。イエスの遺体の葬りは安息日が始まるまでのわずかな時間に、迫るタイムリミットに急かされるように行わざるを得ませんでした。イエスの遺体は十分な葬りの手順を踏むことができないまま、墓に葬られました。二人のマリアが安息日の終わるのを待ちかねたように、週の初めの日の朝早く墓に向かったのは、手順が不十分であった葬りへの心残りが深かったからだと思います。あくまでも葬りの不備を整えたい、そのことを願って女たちは墓に急ぎました。

◆ イエスの死をめぐって人が思いを至らせることができるのはそこまでです。しかし人の世に神が提示した事実は、人間の思いの行き着く果てを超えるものでした。墓の入り口を封印していた重く大きな石が彼女たちの目の前で動かされ、再び見た墓の中にイエスの遺体はありませんでした。そして「あの方は、ここにおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と天の使いから告げられました。その時「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。実に生々しい恐れと驚きの描写です。女たちも同様であったはずです。しかし彼女たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行ったと記されています。

◆ イエスが復活したという知らせが二人のマリアから弟子たちのもとに届けられました。弟子たちも大きな驚きと戸惑いを覚えたはずです。ただしかし「イエスは死者の中から復活された」という知らせだけであったとしたら、弟子たちにとって、この出来事は驚きではあったでしょうが、距離の離れた出来事として聞くということでしかなかったのではないかと思うのです。女たちがもたらした知らせが弟子たちを根底から揺さぶり、イエスの復活が弟子たち自身に深く食い込む出来事として受けとめられて行ったのは「イエスが死者の中から復活された」ということによるのではなく、「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会うことになる」というイエスの言葉が告げられたからだと私は思うのです。なぜなら、少し荒い表現になりますが、この時点で弟子たちは「いったいどの面を下げてイエスに会うことができるのか」と言わざるを得ない立場にいたからです。

◆ 彼らはイエスを見捨てました。「イエスと一緒だった」と問われて「イエスのことなど知らない」と嘘をついた裏切り者でした。三日前、イエスは祭司長や長老たちがつかわした手下によって捕らえられ、大祭司カイアファの屋敷に連行されました。26:5には「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去ってしまった」と記されています。弟子たちは皆、例外なく、です。逮捕の夜、イエスは弟子たちと一緒に食事をし、そのあと一行はオリーブ山に出かけました。そのとき、イエスは弟子たちにこう語りました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」 そのときペトロはこう言い放ちます。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」ペトロのその時の心に偽りはなかったと思います。本気で、心からそう誓ったのだと思います。しかしその誓いは時をあまり経ることなく崩れました。彼はイエスを見捨てました。一番肝心な時に弟子たちはイエスを見捨てました。見捨てただけではなく、イエスとの関わりを否定しました。ガリラヤでイエスと一緒に歩み、宣教の働きをになった3年間を否定し、そんなことはなかったと切り捨てました。

◆ 彼らはいったいどの面を下げてイエスにまた会えるというのでしょうか。その弟子たちにイエスから「ガリラヤで会えるよ」との伝言が届きました。ガリラヤは弟子たちがイエスと出会った場所でした。彼らの故郷です。しかしイエスを裏切り、見捨てた後の彼らにとって、ガリラヤは落ち延びていく場所でしかありません。しかしそこであなたたちを待っているという伝言をイエスは女たちに託しました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 それはただ単に再会できるということではありません。イエスの死で弟子たちの人生は挫折し、打ちのめされ、悔いの重さと深さに押し潰されるように終わっていました。ガリラヤに行くとは、弟子たちにとってそういう意味しか見出せないことでした。しかしその場所が、復活という神によって起こされた出来事の深い意味を啓示する、明らかにするのだというのです。墓という、人生の終わりでしかないところから始まるものがあるという世界が告げられたのです。

◆ カトリック司祭の晴佐久昌英さんの詩集「だいじょうぶだよ」の中に、こんな言葉があります。
「もうおわり というときに はじまるものがある。闇の中に吸い込まれていく思いで 桜の無心に咲く午後の校庭に立ちつくし、亡くした人と同じ制服の笑顔に息が止まるとき この木の下でこの花びらに触れたかもしれないと 散り敷いた思い出をかき集め握りしめるそんなとき すべてを失ったその手の中で はじまるものがある・・・・・もうおわった というときに たしかにはじまるものがある そうして最後の最後にかき集め握りしめたものまでも 思いきり 春風の中へ放つとき 世界のはじめに爆発した光の花びらのように おわりをおわらせて はじめてはじまるものがある」

◆ 人は皆、いつか自分は死ぬと思っています。あまり考えたくないことして、いつもは意識の外に追いやっていますが、「その日」のことは常に意識の片隅に潜んでいます。年とともに命の残りのことが気になり始め、死への恐れは日常のさまざまな側面に暗い影を落とし、ことあるごとにマイナス思考を産み落とします。そのような命の終わり方を終わらせる。主の復活はそのことを啓示する神の出来事です。終わりを恐れ、終わりを見つめることを恐れる、そのような生き方を、恐れることを終わらせると神は宣言したのです。「恐れることはない」と語るのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのか、あの方はここにおられない。」「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 痩せ我慢をしなさいというのではありません。頑張って恐れないようにしなさいというのでもありません。恐れる必要はないと神は言われるのです。それは「もうおわり というとき はじまるものがある」からです。「おわりをおわらせて はじめてはじまるものがある」からです。それを確かめるために、私たちはそれぞれのガリラヤに行くのです。今生きている場所に立つのです。イースターの喜びと希望を示して神はそこに待っていて下さいます。

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