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2022年5月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ヨハネによる福音書 21章1~14節 「今日を新しく生きる」 菅根信彦

★ ドイツの神学者ボンへッファーは『共に生きる生活』(新教出版社)の中で「朝の祈り」についてこのような言葉を記しています。「旧約の一日は夕べに始まり、翌日の日没で終わる。それは待望の時である。新約の教会は早朝の日の出に始まり、翌朝の黎明に終わる。それは成就の時であり、主の復活の時である」と。「朝の早い時間は復活のキリストの教会のものである」と指摘します。

★ 確かに、「週の初めの日」「朝早く」イエスの復活の出来事があったことは四福音書全ての「イエスの復活物語」が伝えています。それは「希望の朝」であり、神の人間への慈しみの表れであり、死は死で終わらないキリストによる「愛の勝利」の時を告げるものでした。同時に、躓き多い私たちを「再び立ち上がる」ことが許される時でした。しかし、再起の出来事は一時になされたのではなく、しばらくは「一進一退の信仰」を繰り返していきます。

★ 今日の聖書個所であるヨハネ福音書21章は「復活したイエス」がガリラヤで顕現する物語です。ここでも「朝早い時間」の出来事、いや、闇深まる夜から夜が明ける早朝の出来事として描かれています。しかも、この21章は明らかに「後世の加筆」であると言われています。ヨハネ福音書はもともと「トマスの疑いの物語」(20章24節以降)で終わっていたはずです。そのことは「本書の目的」(20章30~31節)が書かれている結びの言葉を見れば分かります。ヨハネ福音書の本編編集の後に加筆されたものです。複数の著者の存在、ある時間を経た信仰共同体の存在を感じさせる言葉となっています。この加筆された、21章を含めてヨハネ福音書が最終的に編集されたのがおそらく90年代から2世紀初頭にかけてのことであると言われています。すなわち、どうしても加筆しなければならない状況がヨハネの教会にはあったのだと思います。

★ ヨハネ福音書の書かれた時代は、ローマ帝国によるキリスト教会への組織的な迫害が始まろうとした時期でした。特に、ユダヤ教徒による迫害が相当にきつくなった時代です。教会を作り上げていった使徒たちの宣教活動が進展しない時代であったと考えられます。復活のイエスの言葉と助けが求められた時代でした。聖書学者の大貫隆さんは、この時代のヨハネの教会共同体の様子を「去る者は日々に疎し」という言葉で表しています。厳しい迫害や圧迫の中で、キリスト教信仰を捨てざるを得ない人々、教会の共同体から遠く離れていく人々の存在があったことを指摘しています。ヨハネの共同体の人々が迫害によって意気消沈している人々を励ますように、この福音書が書かれ、さらに21章が付加されたことが示唆されます。

★ イエスの復活の出来事を経験したはずの弟子たちは、21章ではかつてイエスと共に歩んだあの懐かしいガリラヤ湖畔にいます。意気消沈していたのか「昔とった杵柄」とも言うべき再び漁師の仕事に舞戻っていったことが分かります。しかも、「その夜、何もとることができなかった」(3節)という結果が報告されています。夜通し働いても徒労に終わってしまった弟子たちの姿が記されています。まるで、90年代の宣教活動が上手くいかないで落胆している使徒たちの様子とダブらせてこの物語が置かれているようです。

★ それは、現代に生きる私たちも同様です。「様々な試練」「過重な重荷」「不安や病気」のために意気消沈してしまうことがあります。ペトロたちが元の漁師に戻ったように、「信仰以前」へと後戻りしていくことをしばしば経験していきます。それは個人の信仰の問題だけなく、信仰共同体における宣教活動・伝道の問題としても出てきます。例えば、日本基督教団では現在1,700教会・伝道所で礼拝や宣教活動がなされています。しかし、一方で毎年10~15教会・伝道所が活動を停止してしまう厳しい現状があります。特に過疎地域では教会存続の問題は深刻です。互助連帯の新たな制度や新しい宣教活動のパラダイムの転換が必要となっています。このように、宣教活動の停滞、その働きが徒労に終わるかのような焦燥感に襲われることは今に生きる教会の問題であるのです。

★ そのような徒労を経験した弟子たちに、復活のイエスは川岸に立って、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じます。すると、「大漁の奇跡」を経験します。しかも、その命じた者が「主だ」(7節)と分かると、ぺトロは「陸から二百ぺキス(約90m)」をものともせずに「上着をまとって」湖に飛びこみます。復活のイエスに会いたいとの一念が彼をして湖に飛び込ませたと思います。大変印象的なシーンです。この「上着」と訳されている言葉は、英語でOuter Garments「仕事着」のことです。フランシスコ会訳聖書では「仕事着の裾をまくしあげて」と意訳されています。裸が失礼であるから上着をまとったとも意味が取れますが、私はフランシスコ会訳を採りたいと思います。すなわち、仕事着をまくし上げて「日常の虚しさ」「宣教活動の虚しさ」「徒労に終わるような失望感」の、すべてをひっ下げてペトロは復活のイエスのもとに飛び込んでいくのです。

★ ヨハネ福音書は、復活の命に生きることは、着飾った自分をイエスの元に持っていくのではなく、虚しく徒労に終わるような宣教の働き、惨めな自分自身を引っさげて復活のイエスに向かうことを暗示しています。そして、イエスは大漁の網と共に陸に上げさせます。そして、彼らが待っていたのは、「魚とパン」(12節)でした。しかも、既に「炭火がおこしてある」(9節)のです。そして、イエスは、「さあ、朝の食事をしなさい」と弟子たちを招きます。それは「復活の朝」を想起させる光景です。徒労に終わりそうな夜が再び明け、朝日のさす中でイエスは再起を促すのです。朝はいつでも主の業をなすべく遣わされる時です。朝は再出発の時のようです。「さあ、朝の食事をとりなさい」とのイエスの執り成しと赦しに押し出されて日毎に新しい出発をしていきたいと思います。

2022年5月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年5月15日(日)午前10時30分
復活節第5主日礼拝
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「イエスの愛にとどまる」
              牧師 菅根信彦
聖 書:ヨハネによる福音書15章1〜10節
招 詞:詩編46編10節
讃美歌:24,59(1・2節),397(1・2節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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