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2022年1月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年1月23日(日)午前10時30分
降誕節第5主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説  教:「あなたのごく近くに」
             伝道師 大垣友行
聖  書:申命記30章11〜15節
招  詞:ヨシュア記1章5節
讃 美 歌:29,53(1・4節),55(1・3節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2022年1月16日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書1章14〜20節 「網を捨てた漁師」 望月修治

◆「カミングアウト・レターズ」(太郎次郎社エディタス刊)という本を読みました。この本にはゲイやレズビアンをめぐる子どもと親、生徒と教師の、7組・19通の往復書簡が記録された本です。本の巻頭に次のように記されています。「自分が同性を好きであることに気づいた子どもたちが抱える孤独感は、『異性愛があたりまえ』な家庭のなかで、自分のその思いが家族と分かち合えないものだと感じることから始まります。『これは話してはいけないこと』『わかってもらえるわけがない』と思い、自分のありように、ひとり悩むのです。・・・しかし、近くにいる大人たち ー親や教師など― が、その悩みや苦しみに気づくことはほとんどありません。」現代社会で使われている「カミンガウト」という言葉は、もともとは「coming out of the closet」(クローゼット<押し入れ>から出てくること)という表現から来ているものです。人間の性的指向は多様です。でも人はその多様性を認めようとしない不寛容な社会の中でずっと生きてきました。「クローゼット」とはそのような社会の中で、自分のことを秘密にしておくことを意味する表現です。その中で自らがマイノリティであることを伝え、その後の関係をよりよくしていくのだと意思表示する、それが「カミングアウト」の元来の意味です。

◆ 聖書は、神が人間に御自分のことを明らかにするために書き送られた「カミングアウト・レター」です。例えば旧約聖書の出エジプト記3章には、神がモーセから「名は何というのか」と問われて「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えたと記されています。古代世界では名前はその人の存在全体、そしてその人の生き方、その人が何者であるかを表すものだと考えられていました。名前を答えるということは自分が何者かを明らかにするということです。「わたしはある」と神が答えた、これは神のカミングアウトです。神が自らの名を明らかにするのは、記号としての名前ではなく自分があなたに対してどのように関わり、どのように働くかを明らかにする、公にすることを明らかにするためです。聞かれたから気楽に名を教えたということではありません。

◆ それでは神が自らを明らかにして行かれた人間の側の状況はどうであったのかと言えば、神の意志をきちんと聞き、受けとめたのではなく、その働きを疑い、神でないものを神とし、自分の欲望や物の見方・判断を優先させて生きてきました。神への偏見に満ちている世界、それが私たちが身を置いてきた世界です。しかし神はそのような世界を見放すのではなく、寄り添い、徹底して関わるのだということを約束し、宣言した、それが「わたしはある」という神の名の意味なのです。そのことを最も凝縮した形で示しているのはイエスの十字架の出来事だと思います。新約聖書における神のカミングアウト、それはイエスという存在を通してなされたということに特色があると言えます。福音書記者のマタイはイエスの誕生物語の中でこう記しています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

◆ 「共にいる神」それはどのような神なのか、どのように私たち関わり共にいでくださるのか。今日の聖書日課の箇所は、そのことを体験し味わい知る道へと踏み入る扉の前に招かれ、そして促されてその扉をあけて歩み出して行こうとする者たちの物語です。イエスによって招かれたのはガリラヤ湖の四人の漁師たちです。シモンとシモンの兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らは「わたしについて来なさい」と言われて、網を捨て、また父ゼベダイや雇い人たちを舟に残して、扉を開け、イエスに従ったとマルコは記しています。そして扉の向こうにある道は、「人間をとる漁師になる」道だというのです。

◆ 扉の手前の世界、四人が生まれ育ち漁師として生きて来た世界はどのような世界であったのか。福音書記者のルカは同じこの場面で、漁師たちの暮らしの現実を描きこんでいます。夜ガリラヤ湖に舟を漕ぎ出して、一晩中、場所を変えながら網を打って一所懸命漁をしたけれど、魚は一匹も取れませんでした。徹夜の苦労が報われず、疲れだけを覚えて岸に上がり、網を洗う。そのような報われない状況を漁師たちは幾度となく味わいながら生きていたのだと思います。またマルコ福音書の4章、それから6章にはガリラヤ湖に弟子たちが舟を漕ぎ出した時に、激しい突風や嵐が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになった、あるいは逆風が吹いて漕ぎ悩んでしまったと記されています。生死に関わる嵐や突風が起こり、自分たちの力でなんとかしようとあがいてもどうにもならないという諦めが広がっていく、それが漁師たちの生きていた世界です。私たちの国の前首相は「自助・共助・公助」だと言いました。まず自助、自分でなんとかする、それがまず最初だということです。これは人間が抱く知恵の現実を言い当てていると思いました。どうやったら自分は人より少し得をするだろうか。どうやったら他の人より少し楽になって、どうやったら他の人よりも少し豊かになるだろうかといつも考えている。損をしたら負けだという枠組み、価値観の中でもがいているのです。

◆ そのような私たちに神はどのように関わるのか。新約聖書は、神がイエスを通してカミングアウトされた、御自分がどのような神なのかを明らかにされたと申し上げました。それは十字架にかかる道を歩んだイエスを通してということです。十字架で命を捨てて愛を貫く、それが神のカミングアウトの中身でした。それは損をするということです。パウロはこう語っています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)主が貧しくなる、その貧しさは主が十字架で命を捨てるということに収斂していきました。この真実に、この事実にパウロは深く心を動かされるのです。神が人間に寄り添うために、人間は何も変わっていないのに、神が動いたのです。先手を打ち、十字架を通して赦しを告げる、神が損をする、しかしそれが豊かなものを生み出したことを私たちは知っています。イエスの十字架は弟子たちを変えました、パウロを変えました。そのことを私たちは知っています。神と人間との間には質的な違いがあります。人間が自らの力で超えることはできない壁があります。その壁を神の側が突き崩し私たちに寄り添うのです。この神の決断をエフェソの信徒への手紙はこう記します。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し(た)。」(2:14)

◆ ガリラヤ湖の漁師たちが「わたしに従って来なさい」とイエスに招かれて扉を開け、踏み込んだのはこの世界でした。新たに歩み出した道で、彼らは何をするのか、私たちは何をし、どのように生きたらいいのか。イエスは、ガリラヤ湖の漁師たちに、あなたがたを「人間をとる漁師にする」と語りました。「人間をとる漁師」になるというのは、教会に人を連れてきて、教会員の人数を増やすということではありません。数を増やすことに価値を置くことではありません。自分と違っていることに排他的にならないことです。人は様々な違いを持っています。信仰理解、物事の見方や受け止め方、人間を評価する価値観、生活の仕方、いろいろな違いを持っています。その自分の世界を守るためにブロックを積み上げ、異なったもの排除し、切り捨てようとさえします。しかし人間がそれぞれどんな状況に置かれていたとしても、私たちの思いを遥かに超えて神はわたしに、私たち一人ひとりに寄り添い、共にいてくださるのです。人間は神から出て、神によって保たれ、神によって生きていくのです。そこに立ち位置を据えて人と出会い、絆を結び、歩んでいく、それが「人間をとる」ということの意味することです。そしてその生き方を大切にする、それが神から「人間をとる漁師にする」と言われ招かれた漁師たち、そして私たち一人一人の務めなのです。

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