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2021年10月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福⾳書22章15-22節 「遣わされた者として⽣きる」 佐々⽊玲哉

◆ ファリサイ派の弟⼦が 17 節で「皇帝に税⾦を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」という問いをイエスに突きつけます。その問いに対してイエスは18節で、「イエスは彼らの悪意に気づいて、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。」」と⾔い放つのです。さらに、イエスは彼らにデナリオン銀貨を出させて、そこに書いてある肖像と銘をファリサイ派の弟⼦に訪ねます。そして、そのデナリオン銀貨の肖像と銘が皇帝であるとことを指し⽰すと、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と⾔ったのです。イエスは、ファリサイ派の⼈々が考えた罠にかかることなく、むしろ単純明快な回答を⽰しています。この問答が、マタイによる福⾳書の 21 章 23節から続く神殿の中で⾏われていることを鑑みれば、この単純明快な回答は、敬虔なユダヤ教徒であると⾃他共に認められていたファリサイ派の⾃⼰⽭盾を突いたものであると⾒ることが出来ます。それは、唯⼀なる神を礼拝する場所としての神殿に。当時この世の神的な存在になりつつあった皇帝の像を持ち込むという⽭盾をイエスが指摘したのです。

◆ ⼀⽅で、この明快な回答には、問題があります。それは、もしヘロデ王に税⾦を納めることを認めてしまえば、政教分離を認めることになります。私は、このような税⾦を納めることについての問題をイエスが理解しながらも「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と⾔ったのは、納税をすることが神の意向に反する、律法に反するというのではなく、むしろ、そのような現実社会における⾏いの中であっても神を信じイエスに従うことこそが正しいのだというメッセージであると理解することができます。

◆ ところで、神に与えられたものを返すというのはとても難しいことです。神に与えられたものとは、⾃分⾃⾝の命でしょうか?しかし、神に与えられた命を全うすることすら、とても難しいことです。では、⼀⼈⼀⼈に与えられた能⼒を活かして社会に貢献することでしょうか?いや、私たちはとても弱い存在ですから、そのような社会貢献も⾃分の意志ではめったにできません。そうしますと神のものによって「よく⽣きること」などは出来ないのではないかと思えてきます。神のものを神に返すとは、むしろ「⽣きていること」そのものにあるのではないかと思えてきます。

◆ 実際、私たちに与えられている聖書の中には、幾度となくイスラエルの⼈々が捕虜として捕まり、迫害をされた様⼦が描かれています。しかし、結局は耐え忍び、神を信じぬくこと、あるいは信仰が薄れたとしても神によって⽣きて故郷に帰ったのです。エジプトを出る際には、モーセを通して神を信じることが、⽣きて故郷に帰ることのできる唯⼀の道であったのです。⽣きていることが、「よく⽣きる」ことの前提条件であったことに、彼らは勇気づけられたのでしょう。そのことは、モーセ⾃⾝によって語られています。その⼀つに、旧約聖書の申命記 4 章 4 節にある「あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今⽇も⽣きている。彼らは、主に従い法に従う中で、命を得て主が与えられた故郷に帰ることが出来たのです。」という箇所を挙げることが出来ます。

◆ 私たちが考えることの中には、いつも、神様が与えてくださるものが私たちの幸せにつながるという情念があります。しかし、そのような情念の中には、短絡的な幸福というものがその多くを占めています。そのような、短絡的な幸福は神がお与えになるものでしょうか?与えるとは限らないのです。むしろ、そのような幸せの向こう側につながることを神はお与えになるのです。その与えられるものこそが、「⽣きている」という事実であります。しかしそれでは、どこに恵みがあるか分かりませんし、どこでそのような幸福を受けられるのかも分からないのであります。結局は、モーセが⾔うように主に従うことによって⽣きることで故郷に帰ることが幸せなのかもしれません。そのような幸せは、⽣きている内には出会えない可能性が相当に⾼いわけです。

◆ 私が、学部⽣時代に好んで読んでいましたアウグスティヌスの『⾄福の⽣』の中で、⼈は⼈⽣の内でせいぜい、哲学を学び、その哲学から抜け出て主なる神に従うことを理解せずとも発⾒し、信仰することで⼈⽣を終えてしまうというのです。

◆ では、何のために私たちは⽣きているのでしょうか。幸福を追い求めることがなかった⽅が幸せであったのではないか、そのように思うこともあるかと思います。つまり、幸せやよく⽣きることという事柄や⾔葉が無かった世界の⽅が幸せだったのでしょうか?苦痛が無かった⽅が良かったのでしょうか?

◆ そこで、もう⼀度私たちが本朝に預かりました聖書に⽴ち返って⾒ますと、21節の「神のものは神に返しなさい。」という⾔葉が、初めとは違った形で⾒えてきます。神を信仰することで⽣きているのではなくて、神によって与えられた命を神によって使⽤されているのです。使われているのです。つまり、⼈というのは、神によって与えられた命に付随する幸福、絶望や苦しみを与えられる対象(享受の対象)でありながら、同時に、神によって本来的な他者への幸福へと遣わされる使⽤の対象でもあるのです。そのため、私たちが⽣きたいと願う時、幸福になりたいと願う時、いつも神によって与えられているのです。それは、真に絶望するべきことではなくて、その先にある与えられたものを待ち望むべきなのです。現実的なお⾦も、誰かによって価値を与えられ、誰かによって使⽤されなければ、意味のないものです。確かに現代社会の悩みの中での信仰も重要なことです。しかし、そのような悩みや信仰を越えたところにある確かな何かを追い求めることが重要なのだと私は思うのです。そして、イエスが、天におられる神によって遣わされたように、どんな⼈でも、誰かのため、何かのために、神によって命を与えられて、その命を神によって使⽤されて初めて、⼈間がイエス・キリストの貨幣となることを、私は信じます。

◆ ただ、神に⾃らを使⽤されるというのは、ある意味では、とても畏れ多いことです。ですから、本来的には、イエスの貨幣になることを信じるのではなく、幸か不幸か、淡々とイエスの貨幣として捉えられていることを、苦⾍を噛みつぶしたような顔で受け⼊れることしかできないのでしょう。

◆ でなければ、ファリサイ派とその弟⼦、またヘロデ党の⼈々のように、イエスの前から、神殿からそそくさと⽴ち去ることしかできないのです。しかし、逃げたのだとしても、神の⾔葉に気付かされた時点で、もうすでにイエス・キリストの貨幣として神に捉えられているのだと、私は思います。

2021年10月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年10月24日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第23主日
説 教:「ポイエテス」
伝道師 大垣友行
聖  書:創世記2章4〜9節・15〜25節
招  詞:イザヤ書43章1節
讃 美 歌:27,224(1・2節),205(1・4節),91(1節)
礼拝場所:栄光館ファウラーチャペル

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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