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2021年3月21日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年3月28日(日)
復活前第1主日・受難節第6主日
説 教:「百人隊長の告白」
牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書27章32〜56節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章23〜24節
讃美歌:29, 306(1節・2節), 300(1節・2節), 91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2021年3月14日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.3.14 マタイによる福音書17:1-13 「弟子たちの戸惑い」 望月修治

◆ 受難節、レントの時を歩んでいます。レントとはアドヴェント=待降節と同じようにラテン語です。音楽をなさる方ならこのレントという言葉は大変なじみ深い言葉だと思います。「ゆっくり進む」という意味です。元来は季節がゆっくり春に向かって進むことを表しています。ローマではこの季節をレントと呼んでいました。そしてこの春に向かう季節が、イエスの十字架の出来事が起こったユダヤの過越の祭りの季節と重なり合うことから、レントという言葉がキリストの受難を思う季節をあらわす言葉として用いられるようになりました。
 本日の聖書箇所はレントの時に読まれます。「イエスの姿が変わる」という見出しが付けられています。高い山の上でイエスの姿が変わり、真っ白に輝いたという出来事が記されています。幾度も読み重ねて来た箇所ですが、この物語を読むといつも戸惑いを覚えます。

◆ イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登ります。そこでイエスの様子が変わり、顔は太陽のように輝き、服は真っ白になった。そればかりか、いないはずの二人の人がイエスと話をしているのを、同行していた三人の弟子たちが目撃したというのです。イエスと話し合っていた二人、一人はエジプト脱出の時の指導者モーセです。もう一人は預言者のエリヤです。この場面をどのように受けとめたらよいのかと思いが巡ります。近くにいた弟子たち三人はどう受け止めたのかが気になります。ペトロがこう言っています。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです。」この受けとめ方は人が素朴に抱く神のイメージと重なります。近寄りがたく、光り輝いている、あるいは栄光に満ちている、それが神であることを納得する理由となる。あるいは人間には出来ない超自然的なことを行えることこそ神の神たるしるしだと考える。これはよくある見方です。

◆ しかし、もしそうであるのなら、いくつか疑問が出て来ます。まずひとつ。このような不思議な出来事が目の前で起こり、みんながそれは神さまの働きだと信じるようになるというのであるならば、なぜこの出来事を目撃したのはペトロとヤコブとヨハネの3人だけなのかということです。もっとたくさん人がいるところで、あるいはせめて3人だけではなく他の弟子たちも一緒に引きつれて山に登ったらよかったのではないかと素朴に思います。2つ目は9節です。山を下りる時に、イエスが弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と強く口止めしています。これはまたなぜなのか疑問が膨らみます。

◆ 今日の箇所では、高い山の上でイエスの姿が変わったという出来事を、その場に一緒にいた3人の弟子たちのように受けとめることに対して、神が歯止めをかけているように思えます。5節です。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここの仮小屋を三つ建てましょう」と気持ちの高ぶりを押さえきれずに語るペトロに対して、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語りました。この言葉が意味するのは、「顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった」イエスを、栄光に満ちた存在、晴れがましい存在として見ているペトロたちに、「いやそれは違う。イエスに聞きなさい」と語ったということなのだと思います。

◆ では何が違うのか。すぐ後の箇所に、山の上でその姿が白く変わった後に、イエスが山を下って霊にとりつかれた子供をいやしたという話が記されています。もうひとつ30節以下にはイエスが自らの死を予告したことに関して、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と書かれています。この二つのことが今日の箇所の物語を照らし出す光の役割を果たしています。けいれんを起こす病気に苦しむ子供をいやすというのは、明るい部分です。それに対してイエスが自らの死を予告するというのは暗い悲しみの部分です。そして明るい部分についてはよく分かるけれど、暗い部分については理解できないということ、それが今日の箇所に続く記事から読み取れます。そしてこの二つのことが今日の箇所にもあてはまっていきます。

◆ 山の上でイエスが旧約聖書を代表する二人、モーセとエリヤがイエスと一緒に語り合っている。このシーンは視覚的には明るく輝いています。けれどもそこで話し合われていたことは、9節に「人の子が死者の中から復活するまでは」という発言、あるいは12節の「人の子も人々から苦しめられることになる」という発言から類推して、イエスの十字架の出来事をめぐることであったと考えられます。ですから山の上でイエスの姿が変わるというこの物語は、二重構造になっているのです。弟子たちは光り輝く姿、神の偉大な力に驚き賛美するのですが、しかしイエスが語るのは苦しみと十字架の出来事であるという、全く食い違った二重構造になっているのです。弟子たちにはこの二重構造が見えていない、受けとめられてはいないのです。

◆ イエスが山の上で語り合っていたというモーセとエリヤ、この二人はイエスの時代の人々にはよく知られていた歴史上の人物ではあるのですが、この二人の歩みを振り返ってみれば、決して光輝くヒーローとは言えません。まずエリヤです。12節に「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである」とありますから、エリヤは人々から勝手にあしらわれ、翻弄された悲劇的な人であったということです。次にモーセです。モーセは、遠い昔イスラエルの人々をエジプトから導き出した指導者です。しかし彼はジプト脱出後、神が示した目的地パレスチナに入るまで40年間も荒れ野を旅しなければなりませんでした。その旅は人々からは絶えず裏切られた旅でした。幾たびもの困難をへて、ようやく目的地に入ろうとしたとき、それが許されず、約束の地を目の前にして、生涯を終えたと伝えられています。彼は決してヒーローにはなれなかったのです。そしてこの二人と語り合うイエスもまた、人々からあしらわれ、十字架にかけられて殺されるのです。

◆ この三人をめぐる聖書の物語は、私たちに価値の転換を迫ります。神が偉大であるのは高い所にいるとか、栄光に輝く存在であるというのではなく、人間の苦しみや悲しみにこそ関わり、生き方を変える力、支えとなって働きかける、だからこそ神は偉大なのだということです。

◆ 高い山は近寄りがたいが故に、神秘とされ聖なる場所とされてきた。しかしイエスは高い山に登って近寄りがたさを示すことを目指したのではなく、山を下り、事柄が分かっていない弟子たちや群衆たちの間に立ち続けた人です。人間のそれぞれの現実に寄り添い、隣人であり続けた人です。ゆっくり寄り添い続けた人です。故郷では、そのあまりの身近さの故に、人々はイエスにつまずいたとマタイも13:53以下に記しています。 けれどもこの身近さこそ救い主である理由なのだと聖書は告げます。人間の日々の営みから遠くあるのではなく、その営みに寄り添い、支えるからこそ「救い」なのです。

◆ 人の苦しみは時間をかけてゆっくりと向き合わねばなりません。またゆっくり向き合ったとしても苦しみのすべてが分かるわけではありません。場合によってはほんの表面をなぞるだけということもあります。だからこそ、イエスの歩んだ姿を心に刻み直して、ゆっくり寄り添い続ける生き方をしたいと思うのです。レントはゆっくり進む季節です。ゆっくりと歩んでイエスの受難を思う時なのです。

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