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2020年12月13日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.12.13 士師記13:2-14 「いにしえの先駆者」 望月修治

◆ 聖書のイエスの降誕物語とは直接関わりはないのですが、クリスマスといえばサンタクロースが定番のキャラクターです。サンタクロースは、年齢を問わず、性別を問わず、誰にとっても馴染み深い存在です。人はサンタクロースに何かを求めているのです。サン=テグジュペリが『星の王子様』の中で、「ほんとうのものは目に見えない」と繰り返し語っていますが、人はみなほんとうのものがほしいのです。サンタクロースは「ほんとうのものは目に見えない」という真実を私たちに思い起こさせるのです。

◆ 聖書の世界は、この目には見えない神の働きをイスラエルの人々の歴史的な体験を通して語る物語に満ちています。命の誕生、命の始まりをめぐる物語もその一つです。今私たちはクリスマスに向かって歩んでいます。イエスの降誕物語の中に、祭司ザカリアと妻エリサベトの物語が記されています。イエスは30歳になった頃、ヨルダン川で洗礼を受けるのですが、その洗礼を授けたのがヨハネです。それがきっかけで、このヨハネは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれることになります。彼の両親がザカリアとエリサベトです。まさかこの年になって子供が与えられるはずはないと思っている祭司ザカリアに天使が現れ、「妻エリサベトが男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げます。福音書記者のルカは、ザカリアがアビヤ組の祭司であったと記しています。アビヤは祭司アロンの子孫で、ザカリアの妻エリサベトもアロンの家系であると書いてありますので、祭司としては名家の家柄でした。当時3700人ほどの祭司が24の組に分けられ、神殿の奉仕にあたっていたと言われます。アビヤ組はその第8組にあたります。祭司は神殿の儀式を司るだけではなく、律法を教えたり、人々の訴えを聞くこともあったようです。

◆ ザカリアは、妻エリサベトにこどもが与えられると祭司から告げられて、天使に言います。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」このザカリアの言葉は、遠い昔、アブラハムが妻サラにこどもが与えられると聞いたときの反応とよく似ています。後継ぎを与えられることを待ち続けた二人が100歳と90歳になったときに、神が「あなたの妻サラに男の子が生まれる」と告げます。それを聞いたアブラハムはひれ伏すのですが、しかし笑って、ひそかにこう言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神を笑ったので、その子をイサク(彼は笑う)と名付けるように命じられます。しかし、アブラハムの笑い、不信の暗い笑いにもかかわらず、神はイサクと名付けられた子とその子孫のために繁栄を約束しました。神は人間の側の不信や疑いを問題にはしないのです。

◆ ザカリアの場合も同じでした。彼は、ヨハネが生まれるまで口がきけないようにされたと聖書は記しています。ザカリアにとって自分の年齢を考えればあり得ないことを告げられたのですから、疑って当然なのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と彼が問うたのはごく当たり前のことです。腑に落ちないことがあれば、誰でも「どうして」「なぜ」と聞きたくなります。
人間の常識的な可能性を超える形で、そして巻き起こる人間の側の疑いや不安や戸惑いなどに斟酌せず、命の誕生を物語ることで、神の働きの計り知れない深さと広がりを告げています。

◆ 士師記13章にも、マノアという人物とその妻に主の使いが現れて「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産む」と告げたと語られています。主の使いの言葉を聞いた妻は「非常に恐ろしく、(主の使いに、あなたは)どこからおいでになったのか尋ねることもできなかった」と夫に語っています。サムソンという後にイスラエルの部族を率いる士師となる人物の誕生をめぐる物語です。物語の舞台は士師時代、紀元前11世紀初期です。当時、イスラエル人はペリシテ人の強い影響下にありました。ペリシテ人は、イスラエルがかつて直面したことのない強力な敵でした。パレスチナという呼称は「ペリシテ人に地」という意味であることからも、その影響力の大きさが伺えます。彼らは王制のもとに強力な軍隊をもち、鉄の武器を用いてパレスチナの内陸部に進出して来ました。イスラエルにとって大きな脅威となっていました。サムソンは士師としてイスラエルの部族を束ねながら、ペリシテ人と戦うのです。ただそれは後になって分かることです。妻の言葉を受けとめきれなかったマノアは、自分にも直接聞かせてほしいと主の使いに願い出ます。「あなたをお引き止めしてもよいでしょうか」(15節)と言い、さらに「お名前は何とおっしゃいますか」と尋ねました。名前はその人の本質を表すと考えられていました。名前を尋ねて相手が本当に誰なのかを知りたいと思ったのです。マノアの問いかけに対して主の使いは「わたしの名は不思議と言う」と答えたとあります。不思議はヘブライ語でペリと言います。神のなす業は実に不思議で理屈で説明しきれない、それが「わたしの名は不思議と言う」のだという答えの意味です。

◆ 「生まれたのは何のために」(松木信著 1993年 教文館)という本があります。著者の松木信さんは1935年17歳の時にハンセン病を告知され、以後50数年にわたって、埼玉県のハンセン病療養所全生園で生活されました。無教会派のクリスチャンで『小さき声』というパンフレットを月刊で発行されました。松木さんは、ハンセン病を宣告されたとき、終生隔離されるか死ぬ以外に道はないと思い、死を選ぼうとしました。しかし、川に身を投げようとした時、「おれは何のために生まれたのだ」という疑問が起こり「この世に生を受けたのは、それなりの理由があるに違いない。死ぬのはいつでも死ねる.疑問を解いてからでも遅くはない」と考えて、全生園に入所されました。読書家で、文学書や哲学書を読みあさったけれど、疑問は解けません。解けない限り死ぬこともできない。そのような長い日々を過ごし、そして『生まれたのは何のために』を出版されました。その序文にこう記されています「しかし、最近になって『おれは何のために生まれたのだ』という疑問の中に答えが隠されていることを知った。神は、私がまだ神を知らなかった時、この疑問を与え、私を死から守っていてくださったのである。本書はその記録である。」 「生まれたのは何のために」という問い自身が人を救うことがある。自分は何のために生まれてきたのか、人生の意味は何か、この問いを私たちはさまざまな時にいだくけれど、実はその問い自身が、きわめて重要であり、人を死から守り、信仰に至らせ、かけがえのない人生を生きることを可能にしてくれることがあると松本さんは語っておられます。

◆ 聖書は、この世に生きた人々が、紆余曲折した人生を生きながら、神がどのように自分に関わり、命への働きを示し、実現して下さったかを書き記した文書が集められて出来上がりました。そこに登場する人物は、真面目な落ち度のない、優等生ばかりではなく、むしろ、失敗したり、過ちを犯したりする人々が次々と登場します。ある意味では、聖書は立派に生きた人たちの偉人伝ではなく、いかに人間が弱く頼りないかの告白伝だと言えるかもしれません。しかもその人たちは、聖書の舞台の片隅ではなく、中央にいるのです。その人たちを生かす言葉を聖書は語り続けています。

◆ クリスマスもまた人の世の多くの「なぜ」が満ちている只中に出来事となって起こり、私たちに見える形で示されました。この1年、コロナ禍の中で、私たちは多くの「なぜ」という問いを発しました。その「なぜ」を束ねることを聖書から促されます。そして束ねられた「なぜ」から新しいクリスマスの物語がわたしたちのもとに贈られてきます。希望を抱いて今クリスマスを迎えたいと思います。

2020年12月27日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2020年12月27日(日)
降誕節第1主日
説 教:「天の星・地上の星」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書2章1〜12節
招 詞:イザヤ書60章1〜2節
讃美歌:28, 552(1番・2番), 403(1番・2番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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