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2020年12月6日(日)説教要旨   [説教要旨]

説教要旨2020.12.6 イザヤ書59:12-20 「天の風に編まれた歴史」 望月修治

◆ 世界中、どこでもクリスマスを12月25日だと思っている方は多いと思います。しかしこの日をクリスマスにしているのはプロテスタント教会とローマ・カトリック教会だけです。東方正教会に属する教会は1月6日をクリスマスとして祝っています。東方正教会とは、ギリシア正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会のことを言います。

◆ 初期の教会、初代教会は、イエスの誕生日に大きな関心を置きませんでした。むしろイエスの十字架と復活に重点を置いていました。ユダヤ教の安息日は金曜日ですが、キリスト教は礼拝を、イエスが復活した日曜日に守ることを決め、この日を主の日としたのもその表れです。イエスの誕生日のことが表立って取り沙汰されるようになるのは4世紀になったからです。それはキリスト教がローマ帝国の中に勢力を伸ばしていく時期が4世紀だったことに理由があります。ローマ帝国の中に入り込むということは、異教世界に入り込んで伝道活動をするということです。このため、救い主イエスの生涯についても、誕生から十字架の死、そして復活に至るまでを明らかにすることが伝道する上で必要になってきました。そこで、あいまいなままになっていたキリストの誕生日をはっきりさせることが課題となったのです。

◆ 12月25日は、当時使われていたローマの暦で冬至にあたります。古代ローマの農民たちはこの日、常緑樹を飾り、飲み食いして、翌年の豊穣を願ったと言われます。冬至の時期は、太陽が光を失い、闇が人々の生活に濃い影を落とし、自然は枯れたような姿となります。この時期は、闇の中を死者の霊が跳梁すると人々は考えました。その死の世界から抜け出し、生命の芽生えもたらす春がやって来るためには、死者の霊に早く去ってもらわねばなりません。そういう理由で死者の霊に贈り物をしたのが、クリスマス・プレゼントの習慣に受け継がれたのだとも言われています。キリスト教はこのローマの習慣を巧みに取り入れたのです。イエスこそ「義の太陽」(マラキ書3:20)であり、人々を死から命へと救うためにこの世界にやってきた救い主であることを示し、人々の意識をキリストの福音に集める絶好の機会であるとして、12月25日が選ばれたのです。

◆ 初代の教会がローマの異教社会の中で、他民族・他宗教の中で伝道しようとするときには、このように異質なものを包み込んでいく姿勢が求められました。むしろ教会は、それを積極的に用いたのです。他宗教・他民族の文化、慣習を取り込んででも伝道しようとする初代教会の知恵をそこに見出すからです。日本という土壌の中で伝道する教会にとって、この初代教会の取り組みから与えられる示唆は小さくないと思うのです。

◆「信仰において譲らず、愛において譲る」、これはルターがガラテヤ書の講解の中で語っている言葉です。もう少し正確に申しますとこう言っているのです。「愛は小さなことであっても譲歩し、『わたしは全てを忍び、すべての人に譲歩します』と言う。しかし信仰は、『わたしは誰にも譲歩しません。すべてのもの、地上の人々、国民、王、君侯、裁判官などがわたしに譲歩するのです』と言う」のだとルターは語っています。信ずるということは本来一途なものです。けれども一途であることと排他的であることとは違います。聖書の信仰に生きることは、異なった信仰や立場の違う人を排除したり、否定して成り立つものではありません。初代教会は、ローマ社会に伝道するにあたって、異教徒である隣人を大切にする道を選び取ったと言えます。

◆ このことは新島襄が京都に足を踏み入れた時の状況とも重なるのではないかと思います。1874年9月24日にボストンのマウント・ヴァノン教会で按手礼を受け、正規の牧師資格を得た新島はアメリカン・ボードから「準宣教師」として日本に派遣されることになり、11月26日に横浜に帰港しました。明治維新後の日本への帰国です。アメリカン・ボードが行おうとしていた日本伝道において、新島は文字通りのキーパーソンでした。すでに日本に派遣されていたネイティブの宣教師たちは、日本語の習得に苦労し、彼らの伝道活動は言葉という壁にぶつかり、思うようには展開できていなかったからです。その障壁がない宣教師の存在は、日本での伝道活動のために渇望されていました。日本語に障壁を持たない新島の派遣はその課題が一気に解決されるということです。ところで宣教師と準宣教師と違いは何かと言いますと、準宣教師にはミッションの会議での議決権がないことです。会議への参加、討議に加わることは自由でしたが、唯一のハンディキャップが議決権をもたないことでした。

◆ 新島は日本へ宣教師(準宣教師)として派遣されることをどう思っていたのでしょうか。実はその願いを新島は早くからもっていました。1868年のことです。アーモスト大学在学中のことですが、夏季休暇の時に、新島は一人の友人と一緒に、N・G・クラークという人物の家で一晩過ごしました。クラークはアメリカン・ボードの総幹事を長年務めた人です。翌朝の祈祷会の時に、最初の祈祷を頼まれた新島の祈りは家族の心に記憶として長く留められた祈りであったと言います。朝の祈祷会が済むと、新島はクラークの手を握って、母国に宣教師を派遣してほしいと熱心に懇願しました。新島の願いは翌年1869年に実現します。アメリカン・ボードによる日本伝道の開始は、この時の新島の進言が一つの契機となりました。

◆ アンドーヴァー神学校卒業を間近にした1874年3月、神戸にいた宣教師D.C.グリーンはクラークに書簡を送り、「早く新島を日本に帰国させて、伝道にあたらせてほしい」と要望しています。この書簡を受けて、クラークは新島にグリーンからの手紙もみせて、「日本での伝道にあたる意志があるかどうか」とたずねました。新島に異論ありません。この年の4月には新島の日本への派遣が決定されました。

◆ 日本で働いていたアメリカ人の宣教師たちからの新島に関する問い合わせの手紙に対するクラークの返信は新島への高い評価を伺わせます。「ニイシマ氏が帰国することで、微妙な問題がいくつか起きることについて言及されていますね。彼は投票権のない、ミッションの準宣教師として帰国いたします。彼はどんな仕事にでも当たれるように備えています。円熟した学徒であり、熱心で献身的な信徒です。またあらゆる意味で日本人の感受性と天性の礼儀正しさ兼ね備えた紳士です。私たちは彼が日本ミッションの大きな戦力になってくれるものと判断しております。」(『京都のキリスト教』35頁)

◆ 帰国後、新島は神戸、大阪を経て、1875年には京都に転出し、アメリカン・ボードや山本覚馬らの協力をえて、11月29日に同志社英学校を設立します。このエピソードが出てくると、教育者新島というイメージが前面に出てくるのですが、しかし新島の第一義はあくまで牧師です。そのことを伝えている証言があります。同僚であったJ.D.デイヴィスの証言です。「1875年に彼(新島)が京都に来たときの最初の仕事は、安息日(日曜日)に自分の家で礼拝を開始し、男女から成る小さなグループにキリスト教を宣べ伝えたことであった。」(『京都のキリスト教』63頁)京都での新島の初仕事は礼拝を守ることでした。牧師としての働きを果たすことでした。

◆ その基本姿勢は英学校設立のちょうど1年後、1876年に三つの「同志社の教会」西京第一公会、西京第二公会、西京第三公会を11月26日(日)から一週間ごとに設立したということにも表されています。新島襄は神に用いられ、「牧師・新島襄」を基盤として「教育者・新島襄」を生きたのです。

2020年12月20日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2020年12月20日(日)
降誕前第1主日 クリスマス礼拝
説 教:「野に生きる時のあなたへ」
    牧師 望月修治

聖 書:ルカによる福音書2章1〜20節
招 詞:ミカ書5章1節
讃美歌:27, 265(1番・4番), 257(1番・3番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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