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2020年11月01日(日)説教要旨  [説教要旨]

説教要旨2020.11.01 イザヤ書44:6-17 「神の居場所」   望月修治

◆ 永眠者を記念することの意味に思いが巡ります。それは単にその人の「過去」を偲ぶことではありません。亡くなられた方のことを思うとき、「過去」が私たちの「今」に命を持って立ち上がります。そしてその人の人生を支えたのは、その人の中にあったものではなく、外から届けられたもの、主である神の働きであることを知らせるのです。

◆ 旧約聖書で「過去」は「オーラーム」と言います。この言葉には興味深い意味があります。詩編77:6にこんな言葉が記されています。「いにしえの日々をわたしは思います。とこしえに続く年月を。」 ここで「いにしえの日々」と訳されているのが「オーラーム」なのですが、その原意は「私の前にある年」です。いにしえの日・過去は後ろ側にあるのではなく、私たちの前方にあるという理解です。これに対して、未来は私たちの前ではなく、背後にあるのだと考えるのです。例えばエレミヤ書29:11に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって・・・将来と希望を与えるものである。」とあります。ここで「将来」と訳されている「アハリート」の原意は「背後にあるもの」「後ろから来るもの」です。旧約の人々にとって、過ぎ去った過去の出来事とは、神が彼らの目の前で明らかにされた出来事であったのです。これに対して、未来は、まだ隠されて、まだ見えていないことであったのです。自分の前にあれば見えるわけですから、見えないということは、自分のうしろ側にあることだと考えたのです。未来は自分たちの背後にあって隠されたものであり、神の支配にゆだねられるべき時なのだと捉えられたのです。人間は未来に背を向け、過去を前に見ながら時間という流れを漕ぎ昇る旅人なのです。

◆ 今日はイザヤ書44章を読んでいます。この箇所を含む40-55章は紀元前6世紀後半に捕囚の地バビロニアで活動した無名の預言者、第二イザヤと仮に呼ばれる預言者の言葉が記されています。紀元前587年、バビロニア軍はエルサレムを包囲し、これを陥落させました。そしてバビロニアはイスラエルの人々を捕囚としてバビロンに連れていきました。50年に及ぶ長い捕囚の時代が始まります。イスラエルの人々は未来に対する絶望感を深めていきました。このまま続けば自分たちの民族は異国の地で滅んでしまうという、未来への絶望、希望の喪失が人々を覆っていきました。神の力を信じたくても、現実には神の助けと力とを感じることが出来ず、かえって悲しみが深くなり、悩みが増し加わってしまうのです。苦しみや悲しみの時にこそ、神から力を与えられ、助けを与えられて新たな勇気と希望を得たいと私たちは願います。しかし、えてしてそのようなとき、祈り求めても、神の助けや力を与えられたとはどうしても思えないことが少なくありません。祈っても祈っても解決されず、嘆きや悲しみだけが増し加わっていく、そのような経験をするのです。イスラエル人々は捕囚の地で、未来を閉ざされてしまった深い絶望の中にいます。そこからの救いを求めて、人々は偶像を刻み、拝みました。

◆ 第2イザヤは偶像の空しさを語ります。人は薪を燃やして暖をとる、またその火でパンも焼く。そしてその残り木で神の像を造ってその前にひれ伏し「お救い下さい、あなたはわたしの神」と言う。何と空しい姿でしょうか。第二イザヤは自分の未来に希望を失い嘆きの中にいる人々に、神のみわざを思い出せと語ります。「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。わたしをおいて神があろうか。」この預言者は捕囚の地に生きる人々に、神の御業を思い起こして心の中に刻み込めと語るのです。そして神のなされた出来事を思い起こすことによって、人は希望を得て、未来へと向かうことが出来ると語るのです。

◆ 未来は自分の背後にあって隠されているということ、それはすなわち、未来は神の支配される領域であり、そしてその見えない神の働きに全てを託しながら生きるべき時なのだということです。未来はあくまで私たちの背後に隠されています。その全てを見ることは出来ません。それ故にこそ、私たちは自分の前に置かれている出来事、すなわち、イエスの言葉と働きを通して明らかにされた神の働きを未来に向けて漕ぎ進むための目印として歩むことを促されるのです。

◆ 子どもを亡くした親たちで作るセルフサポートグループがあります。この会はお互い同士が同等な関係で支え合うとことによって活動が続けられています。子どもを事故や病気で亡くした親たちが「わが子を亡くした悲しみ」という唯一の共通項を手がかりに集まり、それぞれの体験やその時その時の心の思い、苦しみや悲しみを語り合います。ある時には自分が語り手となり、またある時には誰かの話の聞き手になる。そして体験を共有していくことを大切にし合いながら「ちいさな風の会」は続けられています。この会は人助けをすることが目的でできたわけではなく、苦しみと悲しみから生まれて会でした。一人きりでいるのはあまりにも心細く、共有体験をもつ友という大きな翼のもとに、ひと休みするような気持ちで寄り添い合ったグループでした。

◆ 不用意な励ましは、人をいっそう孤独にすることがあります。悲しみは理解されることよりも、温められることを待っています。悲しみを真に温めることができるのは励ましの声ではなく、もう一つの別の悲しみです。思想家の柳宗悦(やなぎそうえつ)がこんなことを書いています。「悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情で」ある。悲しみがつながりの中に置かれ、自分ひとりの悲しみではなくなって行くとき、人はいつしか、悲しみや痛みの奥にもうひとつの世界があることを知ります。

◆ 聖書の救いは神自身の悲しみと苦しみを通して示されます。あのイエスの十字架は人間の悲しみを共に悲しむ神の姿そのものです。この十字架のイエスの源流にあるのは第2イザヤが示した神の働きです。この預言者はひとりの僕のことを人々に語りました。「苦難の僕」とよばれた僕の姿です。捕囚として連れて行かれた異国の空の下で、人々は「自分たちのこの痛みを負い、病を知ってくれる者は誰か」と問い、その問への答えを求めました。第2イザヤは人々に語ったのは、輝かしい威厳に満ちた王のような存在ではなく、むしろ逆に「多くの痛みを負い、病を知っている」僕の姿であり、このような存在こそ救いの道を切り拓いてくれるのだという前代未聞のメッセージでした。人々は最初そのことに気づきませんでした。むしろそのような僕の存在を軽蔑していました。しかしやがて、実はこの僕の苦しみは自分たちのためであったことに思い至った時、人々はこれまでと全く違う世界を見いだします。イザヤ書53章5節はその気づきを語っています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

◆ 私たちが行う永眠者を記念するということの大切な意味は、かつて共に生きた人と分かち合った出来事の中に神の働きを見い出し、自分たちの進むべき方向を見出すことにあります。イスラエルの人々の信仰は今日に至るまで繰り返し出エジプトの出来事を思い出すことによって支えられてきました。それは過ぎ去った出来事を、ただ過去の遺物として思い出しているのではありません。むしろ未来への希望が持てなくなればなるほど、彼らは自分たちの目の前に起こった出エジプトの出来事を繰り返し思い起こし、そこに神の働きを見出し、進むべき方向を確かめていったのです。

2020年11月15日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年11月15日(日)
降誕前第6主日
説 教:「神の言葉、人の言葉」
    牧師 髙田太

聖 書:申命記18章15〜22節
招 詞:使徒言行録3章22節
讃美歌:24, 461(1番・2番), 436(1番・2番), 91(1番)

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