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2020年9月13日(日)説教要約 [説教要旨]

説教要旨2020.9.13 ヨハネの手紙一 5:13-21 「命の座標」 望月修治  

◆「ヤバいぜ!聖書」という本を読みました。怪しい本ではありません。明治学院テキスト作成委員会が明治学院中学・高校・大学で共通して使えるテキストをという願いに応えて作成した本です。「やばい」、若い人たちがよく使う言葉です。広辞苑によりますと「やば・い」は形容詞で、その意味の一つは「のめり込みそうである」とあります。その意味を生かせば「ヤバいぜ!聖書」は「聖書にのめり込みそうだ」ということになります。皆さんはいかがでしょうか。「聖書にのめり込みそうだ」なんて、それこそヤバいぜ、と思われるかも知れません。

◆ この本は聖書のヤバさを「聖書には無数の穴が空いている」と表現しています。もちろんその穴は紙に空いているのではなく、聖書の言葉自体にある穴のことです。聖書を読んでいて、なぜか分からないけれど心惹かれたり、逆に強く反発を感じるところがあったら、そこが穴の可能性が高いとありました。その穴は聖書の壮大な物語を起動させる鍵を差し込む鍵穴だというのです。そして聖書の壮大な物語を起動させる鍵はあなた自身なのだと語りかけます。自分という鍵を差し込む穴は実際に聖書を読んでみて初めて見つけることができます。聖書の鍵穴は自分で見つける以外にないのですが、でもまず一つでよいのです。聖書の一つの物語、ひとつの言葉が自分の中で動き始めたら、そこから聖書の物語が起動し、一変する景色が広がり始めるという体験が訪れます。それは井戸を掘って地下水脈に行き着くことに似ています。井戸を掘る場所は同じではありません。しかしそれぞれの場所で掘り進んでいったとき地下に流れる共通の水脈に行き当たります。そして汲み上げる井戸は違っても、同じ水脈の水を汲み上げ、その水を飲み、命が養われます。聖書も同じです。心にとまった物語や言葉という一つの断片が聖書の壮大な物語を起動させ、生きることの見方、受け止め方を転換させるのです。それが「ヤバいぜ!聖書」「聖書にのめり込みそうだ」という旅の始まりです。

◆ さて今日読んでいるヨハネの手紙、全体で5章ですから、比較的短い手紙です。どんな手紙なのか。書かれたのはおそらく紀元1世紀前後です。当時、大きな危機が教会内で起こります。信仰理解について行き違いが生じ、対立が先鋭化して、教会が揺れ動いたことでした。そこで書かれたのがヨハネの手紙だと言われています。2:22に「偽り者は、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」と書かれているのですが、これはその危機を伝えています。4:20にも具体的に危機の中身が伝えられています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することは出来ません。」 

◆ 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むというのは、いろいろある危機の中の一つということではなく、教会のあるいは人間としての基盤を揺るがす危機ということを意味しています。かつてイエスは一人の律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問われた時に、「神である主を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」だと答えました。(マルコ12:28-31)第一というのは順番ではなく土台あるいは基盤ということです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むということは、この土台を崩してしまうことに他ならないのです。

◆ では、この危機に対してどのように向き合おうというのでしょうか。13節に「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と記されています。「永遠の命を得ていることを悟らせる」こと、それが危機を乗り越える手だてだというのです。「永遠の命」というのは聖書の大切なキーワードの一つです。神が共にいてくださる恵みと祝福を表す独特の用語です。では神が共にいる恵みと祝福とは何か、永遠の命とは何か。

◆ ピアニストの舘野泉さんは2002年1月、フィンランドでのリサイタルが終わり、聴衆にお辞儀をして数歩歩いた所でステージ上に崩れ落ちました。脳溢血でした。二ヶ月間の入院、退院後のリハビリで、右半身の麻痺はだいぶとれて、日常生活にはさほど不自由を感じなくなられましたが、右手でピアノを弾くまでの回復とはなりませんでした。ピアノ演奏という人生の核を失って暗い気持ちになっている舘野さんに変わるきっかけを与えてくれたのは「三つのインプロヴィゼーション」という左手の曲でした。バイオリニストのご長男英司さんが弾いてみたらと持ってきてくれた曲でした。イギリスの作曲家ブリッジが第一次世界大戦で右腕を失った友人のピアニストのために書いた作品です。この曲との出会いを舘野さんは次にように語っておられます。本当に印象深い言葉です。「その作品を弾いたとき、氷が割れたのです。蒼い大海原が目の前に現れました。水面がうねり、漂い、爆(は)ぜて飛沫をあげているようでした。自分が閉じ込められていた厚い氷が溶けて流れ去るのが分かりました。」弾きながら自分が命を取り戻して呼吸をしていると感じました。左手だけで弾く曲を探してみると八十曲近くも見つかりました。その曲のほとんどが戦争や交通事故、病気などで右手の自由を失った人のために書かれたものでした。

◆ 舘野さんは言います。「左手の曲はどれも立派で、内容も技術的な面も両手の曲に劣らない。けれどもなぜか、日陰に咲く花のように目立たず、知られていない。それは演奏する側、聴く側双方に原因がある。演奏者は身の不自由さをさらけだすことを潔しとしない。聴く方は、ピアノは両手で弾いてこそと思っているから、片手での演奏は、内容的に二分の一だと思っている。一方は目につかないようにし、もう一方は見ようとしないのだから、結局何も見えてこない。一つの視点だけで見ていても、結局何も見えてこないのだ」というふうに言われます。病気で倒れて右手に麻痺が残った。そして仕方なく左手で演奏してみて、音楽がより鮮明に響くことに気づきます。親指と人差し指が旋律、後の指が和音を受けもつことが多いのだそうです。かえってそのことが余分な音を削ぎ落とす。両手で弾けばヴァリエーションを効かせて弾くことができるわけですが、しかし左手だけですから、そんなにたくさんの要素を曲の中に入れることは出来ません。ですから本当にその曲にとっての生命線、命となるもの、核になるものにその曲が絞り込まれて、いろんな装飾音が削ぎ落とされる。音楽の核になる部分が抽出されて一番大事な要素が無駄なく引き出されてくる。左手の曲を弾くようになって舘野さんはそういう音の世界に気づかされていきました。それが左手の音楽のすごさであり、魅力だと舘野さんは言います。「人生を積極的に肯定する情熱がない限り、歌は生まれてこないだろうと思う」(作曲家・武満徹) 人生を積極的に肯定するという生き方は人生に対して複眼の視点をもてたときにこそ見いだすことができます。この視点に気づけたとき人は変わります。舘野さんはその証し人です。

◆ 聖書は、私たちに生きることへのいくつもの視点があることに気づかせるべく一生懸命に語りかけています。私たちの身の上に起こった状況を、起こる前の状況に戻すのではなくて、起こった状況を受けとめ生きる、そのために新たな視点を指し示す、それが神の働きです。そして「永遠の命を得ている」とはその神の働きが届いているということです。

2020年9月27日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年9月27日(日)
聖霊降臨節第18主日
説 教:「心の住み家の住人」
    牧師 望月修治

聖 書:エフェソの信徒への手紙3章14-21節
招 詞:歴代誌下7章14-15節
讃美歌:25, 356(1番・2番), 313(1番・2番), 91(1番)


(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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