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2020年9月6日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.9.6 エフェソの信徒への手紙5:6-20 「光を浴びて」 望月修治     

◆「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・・すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」(11節・13節)今日の箇所で心にとまった言葉です。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」これはよく使われる表現に言い直せば、神様はすべてご存知だ、神の前に隠し事はできないということだと思います。しかしながら、しかしそのあと言葉「明らかにされるものはみな、光となるのです」が心にとまりました。「明らかにされるもの」とは「実を結ばない暗闇の業」「口にするのも恥ずかしいこと」のことです。それが明らかにされたら光となると記されています。しかし本来ならそのようなことが明らかにされたら裁かれるというイメージを抱きます。ところが今日の箇所では、「みな、光となる」と語られているのです。この表現をめぐっていろいろと思いを巡らされました。

◆ エフェソの信徒への手紙を読んでいます。手紙の冒頭には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」と記されています。しかしこの手紙はパウロによるものではなく、パウロの弟子たちの誰かによって書かれた手紙です。古代世界では偽名による著述は珍しいものではありませんでした。この手紙もパウロの思想や信仰理解を是非伝えたいという思いを込めて書かれた手紙です。ひとりの人の名をあえて記して手紙が書かれたということは、その人が与えた影響力がとても大きかったことを示します。パウロがそのような影響を深く残し得た理由は、彼が強く、立派に使徒として歩み抜いたからというのではなく、むしろ逆です。打ちのめされ、弱さをさらけ出したからです。そのことを示すのが「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・・明らかにされるものはみな、光となるのです」という言葉です。

◆ パウロという人は傷を持っている自分と向き合わされた人です。そしてその傷のところから神さまの本当の思いがしみてくる、という体験をした人ではなかったのかと思っています。熱心なユダヤ教徒として薫陶を受け、そのリーダーの一人にもなったパウロは強くて、能力のある人間でした。しかも彼の後ろには、ユダヤの権力者たちがついていました。その力にまかせて教会を叩きつぶし、キリスト者たちを血祭りに上げ、追い散らしました。その時のパウロは確実にキリストと教会に勝利しつつあったはずでした。しかしパウロは負けました。キリスト教会を打ちのめすためにダマスコへ向かっていた時、復活のキリストに出会ったとパウロ自らが語っている何らかの体験をし、キリストに打ちのめされてしまいました。それは、今の今まで律法を守り切ることこそ神が望まれる道だと信じて疑わなかった、その生き方をひっくり返される、そういう現実を突きつけられる体験でした。お前は間違っていると言い切られてしまう体験でした。打ちのめされて、どうしてよいか分からず、パウロは一人のキリスト者を尋ねました。自分が打ちのめそうとしていたキリスト者を訪ねて、これからの生きる道について教えを乞うたのです。打ちのめされた姿を人々の前にさらさざるをえませんでした。ユダヤ教のエリートとしての誇りを取り繕うゆとりなど吹き飛んでしまうほど、彼の受けた衝撃は大きかったのだと思います。

◆ しかし、打ちのめされ敗れた姿をさらけ出したからこそ、パウロは神の思いに触れなおし、ユダヤ教徒時代にはありえなかった体験と深い出会いを味わうことになるのです。使徒言行録21章にその出来事が記されています。その時パウロは3回目の伝道旅行を終えて、各地の教会から捧げられた献金を携えてエルサレムに向かっていました。その途中にパウロは多くの町に立ち寄りました。そして信徒たちの歓迎を受けています。その町々の中には、パウロ自身が伝道した地もあれば、そうではない所もあります。エルサレムから追い出されて各地に散って行ったキリスト者たちが、それぞれ住み着いた土地で教会を設立していったからです。彼らがなぜエルサレムから散らされていったのかと言えば、パウロ自身がキリスト教会を迫害し、彼らを追い散らしたからです。エルサレムに向かう途中にパウロが立ち寄った町に住むキリスト者たちにとって、パウロは自分たちを迫害し、追い散らした憎い敵のはずです。それなのに人々はパウロをあたたかく迎えました。この再会は決して当たり前の再会ではありません。パウロはどんな思いだったのでしょうか。かつてパウロに追い散らされた人たちは、今、その彼をもてなすにあたって、何のわだかまりもないのでしょうか。どうして彼らは、このようにパウロをあたたかく迎え、もてなすことが出来るのでしょうか。

◆ そうできたのはパウロがダマスコへ向かう途中で負けたからです。パウロは負けた人だったからです。強がり、自分の非を認めなかった人が、うろたえ、躓きを見せたとき、その相手に心の中で振り上げていたこぶしを降ろしている自分に気づくということがなかったでしょうか。打ちのめされた人であったからこそパウロは、彼が追い散らした人々に受け入れられたのだと思うのです。それからもし、パウロが自分自身の考えや決断で思想・信仰を変えてキリスト者となり、伝道者となったのであれば、パウロに迫害され、追い散らされた人たちは、たとえパウロからキリストの赦しの教えを聞いても、わだかまりは消えなかったはずです。しかし敗れた姿をさらけ出したからこそ、受け入れられたのだと思うのです。

◆ どうしても立ち直れないとき、もう駄目だと感じるとき、何気ない言葉で傷つくことがあります。そして傷つかない人はいないのだと頭では分かっていても、自分自身がその立場になると周りのものすべてが敵に見えることもあります。そのような体験にそっと寄り添ってくれる誰かが傍にいてくれたら、それは真っ暗な心の闇の中で小さな光となります。私たちは負ける時があり、打ちひしがれる時もあります。失敗もあります。弱さや惨めさをさらしてしまう時もあります。苦悩が顔ににじみ出ることもあります。けれども、そういう時こそ自分と相手との間にある溝が埋まって行く時なのです。相手に近づき、相手が近づいてくる時なのです。

◆ はじめての教会は、イエスを裏切り、見捨て、徹底的に打ちのめされた弟子たちに、神が働きかけることによって始まりました。神は正しさ、立派さを押し立てその前にひれ伏せさせることで人をご自分につなごうとすることをやめられたのだと思います。できなかったのではなく、やめられたのだと思います。その決意を神はイエスの十字架という傷を負うことで示されたのです。強くなれという道ではなく、人の弱さの傍らに寄り添う道を神は歩んで下さるのです。だから神の愛は、私たちの弱さや破れから私たちの中に流れ込んでくるのです。

◆ イザヤ書55章8—9節にこう記されています。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」 神の思いと道とは人のそれよりはるかに大きく、高く、人はそれをとらえることができない。そのことを立派さではなく傷を通して、神の立派さではなく、神が負った傷、十字架という傷を通して思い知らされたのがパウロという人でした。神は傷を負う方であり、その傷を通して愛をしめされるのだという事実に激しく打たれた人です。エフェソの信徒への手紙はそのパウロの体験を伝え語っている手紙です。

2020年9月20日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2020年9月20日(日)
聖霊降臨節第17主日
説 教:「耐え忍ぶ自由』
    牧師 髙田 太

聖 書:ペトロの手紙Ⅰ 2章11〜25節
招 詞:詩編 23編4節
讃美歌:28、57、528、91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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